第41話 雷電と花頂山の不遇
雷電と花頂山による”天下分け目の蕎麦っくら”は隠し興行であったため、その席に預かった者の自慢噺と、目にすることの出来なかった者によるやっかみで話が大きく伝わり、江戸市中を大いに賑やかすことになったが、相撲興行は相変わらず閑古鳥が鳴く状況だった。
やはり、雷電が強過ぎて勝負どころか相撲にもならず、ほぼ唯一と言って良い好敵手の五郎吉(花頂山)との相撲は死闘に過ぎて凄惨そのものであり、その武闘を讃える者も少なからずいたものの、多くの観衆を引かせてしまうのである。
しかし、雷電も花頂山も己の相撲を曲げない。勧進元や親方衆は頭を抱えるばかりであった。
金四郎はといえば、寛政11年(1799年)に蝦夷地御用となって対露政策に関わるのを起点に、希少な外交手腕を持つ幕臣となって出世街道を歩むと共に、江戸から離れていることが多かった。
その金四郎が珍しく江戸にいた享和2年(1802年)、五郎吉は京都巡業中に病に倒れ、帰らぬ人となってしまった。同年2月に念願の大関昇進を果たし、四股名を市野上に改めたばかり。数え年で34歳の早逝を江戸城中で知った金四郎は周囲の目を憚ることなく号泣した。
五郎吉という好敵手を失った雷電、これまでよりも増して勝利に固執する相撲となり、連勝に連勝を重ねるも、やはり人気を得るには至らなかった。
花頂山五郎吉の他に、同じ力士に二度負けることを許さぬまま、文化8年(1811年)に引退。
江戸本場所での通算成績は34場所で254勝10敗、勝率9割6分2厘は、師匠であり事実上の初代横綱である谷風の成績(勝率9割4分9厘)を上回る成績であったが、ついぞ横綱免許は授与されなかった。
これは、雷電の不人気もさることながら、相撲興行自体が盛り上がりに欠け、将軍上覧相撲を得られなかったことによるもので、時代と合致しないガチンコ相撲ゆえの不遇と言える。
引退後は松江藩の相撲頭取として尽力するも、経験の無い他藩や勧進元との交渉事や力士の育成はうまく運ばず、引退した筈の雷電が力士の不足を穴埋めするために土俵に上がらざる得なくなるなど、苦労が続いた。
ついには松江藩相撲頭取を辞職するに至り、寂しい晩年を経て文政8年(1825年)に逝去した。数えで59歳。相撲で活躍した江戸ではなく、妻・八重の郷里である下総臼井の浄行寺に葬られていることも一抹の寂しさを禁じ得ない。
第2章 完




