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遠山金四郎外伝  作者: 喜多甚
第2章 花頂山五郎吉
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第37話 ゑびす屋

 男は大身商家の主といった風格を漂わせつつ歩いていると、本所を抜けて深川へ入ろうとするあたりで不意に呼び止められた。


「あら、神稲(しんとう)の親分じゃありませんか。」


 男の地顔なのであろう微笑が俄かに陰る。

 隙の無い動きで振り返ると、安堵したのか顔に微笑が戻った。


「なんだ、お(よし)さんじゃないか。盗賊(あっち)の筋かと思ったよ。揶揄うのはやめとくれ。」


 男の名は鉄五郎。

 元の名を徳次郎と云い、かつては「神稲の徳次郎」の二つ名で知られた大盗であった。


 十年ほど前、徳次郎は当時の火付盗賊改方長官に就いて間もない長谷川平蔵に捕らえられ、神稲一家と共に小塚原(こづかっぱら)の刑場で処刑されたことになっているが、実は平蔵が秘密裡に助命し、直属の密偵に加えていた。


 密偵になったのを機に、徳次郎は名を鉄五郎と改めた。平蔵の旧名である銕三郎(てつさぶろう)にあやかりつつも、字を改め、三から五へと低めたあたりに、徳次郎改め鉄五郎の平蔵への傾倒ぶりが窺える。


 それからの鉄五郎は表の顔は雑貨商の主、その裏で火盗の密偵を務めると同時に、平蔵が探索に用立てるための資金の運用を任され、八年間の長きに渡る平蔵の火盗改方長官としての働きを資金面で潤沢に支えたものだったが、平蔵が火盗改方長官を惜しまれつつも引退するや早逝して早や二年余り、生きる張りを無くして老け往くばかりだった。


 その点は、同じく密偵として働いていた相模屋の女将である芳も同様で、人生に面白味を感じぬまま無為な毎日を送っていた。


 そんな仏頂面をしていることの多い二人が揶揄い合うほどには憂さの晴れるであろう催しが、深川門前仲町で行われる。


「お芳さんも行き先は門前仲町(もんなか)だろ?」


「もちのろんさね。気晴らしにおいでと、金坊に誘われたからね。親分もその口でござんしょ。」


「ま、そうなんだけどもさ、お芳さん、天下の往来で"親分"はやめとくれよ。」


 談笑しつつ深川門前仲町へと歩を進め、暖簾を潜るは金坊こと金四郎が懇意にしている高級料亭のゑびす屋である。

 本日ここで、天下無敵の大関と名高い雷電為右衛門と、その雷電関から二つの白星を得た唯一の力士である花頂山五郎吉による”蕎麦っくら”が行われるのだ。


 雷電と花頂山の相撲は文字通りの死闘。

 花頂山の二勝はいずれも組んでの勝利だが、雷電は長い手足を駆使して組ませない。頭と頭で当たり合い、張り合いと蹴り合いが繰り返される相撲は、いつも両者の血飛沫(ちしぶき)が飛び、時には折れた歯が舞い、その凄惨さが観る者を引かせてしまう。加えて、雷電を抱える松江藩の藩士と、花頂山を抱える庄内藩の藩士がたびたび小競り合いを起こし、相撲興行を白けさせていた。


 そんな両雄による”蕎麦っくら”である。


 どんなきっかけで実現したかは限られた者しか知らないが、死闘とは対極に位置するであろうこの対決は、滑稽なまでの面白味を含んでいる。江戸市中に知らしめれば、最近は相撲興行を催しても閑古鳥が鳴く御蔵前八幡宮も満員御礼の祝儀が振舞われることだろう。


 しかし、後の世に寛政の改革と呼ばれた幕府の緊縮財政策が尻すぼみに終わって数年後の現在とはいえ、元禄の頃よりの流行(はやり)遊びである”飲みっくら”や”蕎麦っくら”、それを賭けの対象とする”酒賭け”や”蕎麦賭け”は大っぴらにやると町奉行がうるさい。


 よって、金四郎は両雄のタニマチや親交のある人達に限定してこの催しを知らせ、深川門前仲町のゑびす屋で宴会をやるかのような体を装い、天下分け目の”蕎麦っくら”が行われるのだった。


 もちろん、松江藩士と庄内藩士は喧嘩になるので呼ばなかったが、後で知れ渡ってから騒がれても困るので、江戸家老だけ内々にお呼びした。末端の幕臣に過ぎない金四郎であるが、このとき既に、大藩の江戸家老に内々の情報交換をできる伝手を得ており、その後の飛躍に繋がるのだが、それはまた別のお話。


 ゑびす屋では、五つほどの座敷の壁を抜いて会場を用意したが、鉄五郎と芳が入った頃にはほぼ満席。五十余名が談笑しつつ両雄の入場を待ち侘びていた。

寛政9年(1797年)

遠山 金四郎 (33)

花頂山 五郎吉 (30)

雷電 為右衛門 (30)

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