第14話 相模屋
平蔵はゆったりとした足取りで品川宿に入った。
火盗の筆頭与力には、外泊先は公議御用達の鎌屋である旨を告げて役宅を出た平蔵だったが、網代笠を深くかぶり直して鎌屋の前を通り過ごし、遊郭にもほど近い相模屋の暖簾を潜った。
女中の案内で二階に上がり、廊下を歩いて最奥の部屋に入る。海辺に面した部屋の障子を少し開け、白砂青松の借景を楽しんでいるところ、福々とした柔和な顔に喜色を浮かべた相模屋の女将、芳が訪れた。
「銕さま、久方ぶりでございます。よくおいでくださいました。」
「お芳、久しいな。この相模屋の宿開き以来の無沙汰は詫びねばならんが”銕さま”は勘弁してくれ。」
「これはこれは、今や火付盗賊改方長官にまでご出世なされたお殿様にご無礼を申し上げました。長谷川様…でよろしゅうございますか。」
「む…、やっぱりよいわ。昔馴染みのお芳に長谷川様だのお殿様だの呼ばれてはムズ痒い。お芳の前では”本所の銕”でいることにしようさ。」
「嬉しゅうございます。で、銕さま、本日はどのようなご用向きで。」
「金坊を覚えているかぇ。奴と飲ろうてんで品川へ繰り出したのよ。」
「金坊…、や、金四郎様はちょくちょく顔を出してくださいます。相変わらず遠山のお家は居心地がよろしくない様子ですね。」
「おいおい、俺が銕であやつが金四郎様かぇ。金坊でよかろうよ。」
言葉選びに苦慮するお芳を揶揄いつつ平蔵は話を続ける。
「その金坊にな、暇してるなら俺の下で働かねぇかと声掛けしようと思ってな、酒に付き合えと呼び出したってわけだ。火盗の仕事絡みの話になるから鎌屋を使うつもりだったのだが、品川に来る途中でちょいと事情が変わったのよ。」
平蔵は部屋の障子を開け放つと、沖に浮かぶ漁り舟を指差した。
「お芳、あれは秋刀魚漁かえ。」
「秋刀魚はも少し沖合でございますから…、あ、投網で雑魚を採っているようですねぇ。」
「お芳、顔の向きをそのままにしてな、浜の右手にある松林を見てみな。」
小太りな男が松林の影に隠れてこちらを窺っている様子が芳にも見えた。
「あー、はいはい、張り込みご苦労さんでございますねぇ。上手く隠れているし気配も消してるのは、や、大したもので。銕さまに言われねば分かりませんねぇ。私の若い頃よりも手練れでしょう。」
「お芳もそう思うかい。どうやら存外に大物が釣れたようだ。」
開け放しにした障子を背にして平蔵は座卓に付くや、懐から愛用の煙管を取り出すと、部屋に置かれた煙草盆を引き寄せた。その対面に芳も座る。
「捕らえますなら手勢を呼びますが、いかがいたしましょう。」
一転して怜悧な表情に変わった芳の問いには平蔵しばらく応えず、煙管に煙草を詰める。漸くにして煙草に火を着けると一服して紫煙を低く燻らせた。
「ま、今日のところは野郎の警戒を緩めておくに留めるさ。こうして障子を開け放ったまま月見の酒宴を野郎に見せつけて、そのまま泊まるとしよう。お芳、宿移りした旨を鎌屋に伝えといてくれ。さすれば金坊も相模屋に来るだろうよ。」
「かしこまりました。」
そう返して腰を上げた芳だったが、その口元は妖艶な笑みを含んでいた。
天明7年(1787年)
長谷川 平蔵 (42)
遠山 金四郎 (23)




