4話
「ぎりぎり合格、だな」
「そうですわね」
国王陛下と王妃殿下のお声が聞こえて、私はようやく状況を思い出した。
「殿下、皆様が見ておられますから離れて、ソファにお戻りください」
殿下はまったく離れることなく、私の胸元から視線だけをこちらに向けてきた。
「こうしてしっかり捕まえていないと、アンネリーゼはまた私を置いてどこかに行ってしまうだろう」
「そんなことはしませんから」
私がきっぱり言っても、殿下は動いてくれない。
「私を信じてくださらないのですか?」
ぐっと呻くような声を漏らしてから、殿下は口を尖らせた。
「私のことは名前で呼べと言ったことだって、アンネリーゼはすっかり忘れているではないか」
「忘れてはいません。ただ畏れ多くて」
私としては、むしろ殿下がそれを覚えていたことが驚きだった。
「何が畏れ多いのだ。私は君の夫になるのだぞ。今までの婚約者のことは名前で呼ぶくせに」
「完全に駄々っ子ですわね」
「せっかく気持ちが届いたのに、この調子では早々に幻滅されそうですね」
シュナイヒ侯爵令嬢と第二王子殿下が言い交わすのが聞こえた。
途端に殿下の表情が強張ったかと思うと、次の瞬間には私からさっと離れてソファに座り直した。その顔に私が一番見慣れた優しい笑みが浮かぶ。
「無理強いはしないよ、アンネリーゼ。だが、結婚はできるだけ早くしよう」
「結婚すればアンネリーゼ様は兄上を殿下とは呼べなくなるから、ですね」
「何を言うか。早くアンネリーゼの美しい花嫁姿を見たいとか、早くあの夢を現実にしたいとか、他にも色々あるぞ」
「結婚したからといって、殿下は殿下のままではないのですか?」
首を傾げた私に、殿下がこともなげに告げた。
「君と結婚したら私はキルシュ家に婿に入るのだから、殿下ではなくなるだろ」
「ええ? でも、キルシュ家はオスカー様とビアンカが継ぐ予定で」
「ビアンカ? 誰だ?」
「私の妹です」
「ああ、そんな名前だったか」
「それは認められん」
陛下のお言葉に私は思わず目を丸くした。
「ヨアヒムが先代キルシュ伯爵の養子であることは知っておるな?」
「はい」
先代キルシュ伯爵、つまりお祖父様には実子がいなかったため、分家筋からお父様が養子に迎えられて爵位を継いだのだ。
「数人の候補がいた中でなぜヨアヒムが選ばれたのかと言えば、先代の姪であるイレーネと婚約していたからだ。つまり、伯爵を名乗るのはヨアヒムでも、実質的にキルシュ家の相続権を持っていたのはイレーネ。イレーネが亡くなった後は、その一人娘であるアンネリーゼということだ」
お祖父様は亡くなるまでお母様のことは娘、私のことも孫として可愛いがってくださった。
でも、この国では爵位を継げるのは男性に限られているので、次期伯爵を決められるのもお父様だと思い込んでいた。
「ヨアヒムは後妻を迎えてそのあたりをすっかり忘れてしまっているようだが、キルシュ家の分家筋はしっかり覚えていて、次期伯爵はハンス・マイヤーにという声が余のところに届いていた。アンネリーゼの夫になるのがユリウスに代わったとしたら分家筋はどうするか、言わずもがなであろう」
平民のハンス様でも構わないなら、殿下のことは大歓迎だろうか。
「それから、王子が臣籍降下するとなれば爵位と領地が与えられるのが常だ。今回の場合はキルシュ領に加増して伯爵から侯爵に格上げする形にしようと考えておる。よって、ヨアヒムには結婚と同時に爵位をユリウスに譲ってもらう」
「そういうことだから、私たちの新居はキルシュ家の屋敷になる。もし君が嫌なら新しい屋敷を建てるけど」
「私は、殿下がよろしいなら構いませんが」
「私もアンネリーゼと一緒ならどこでも良い。だけど、新婚生活は二人で穏やかに過ごしたいから、キルシュ伯爵たちに新しい家を用意しないといけないな。あ、そうそう。キルシュ伯爵にも結婚の許可はいただいたから安心して。お腹の子の父親は私だって言ったら、快く認めてくれた」
最後に見たお父様たちの表情からして「快く」だったとは思えないけれど、それよりも気になるのは別のことだ。
「殿下は私のために王太子の位を降りられたのですか?」
「いいや、違うよ」
「でも、他に理由がありません。殿下はとても立派な王太子でいらっしゃったのですから」
「アンネリーゼがそう思ってくれていたなら嬉しいな。私はそのために王太子であったのだから」
「え?」
私は目を瞬いた。
「茶会で初めて出会ってから、私の行動の指針は常に君だった。どうすれば君が笑ってくれるか、どうすれば立派な王太子だと褒めてくれるか、そんなことばかり考えていた結果、誰からも王太子として認められるようになった」
殿下の顔に馬車で見たのと同じ自嘲が浮かんだ。
「だが、それは私にとって喜ばしい状況ではなかった。私の望みは国王になることではなく君の夫になることなのだから。いくら君が笑っていても、君の隣にいるのが他の男では本末転倒だ」
殿下が私の頬にそっと触れた。
「今日、ようやく私の望みが叶った。君が叶えてくれたんだ。だから、そんな顔をしないで笑ってほしい」
笑顔を作ろうとしたけれど、上手くいかなかった。殿下が困ったような顔をなさった。
「もしかして、アンネリーゼが私の愛を受け入れてくれたのは私が王太子だったからなのか? 君が王妃になりたいのなら、私が何としても叶えてあげるけど」
殿下の声が真剣なものに聞こえて、私は急いで首を振った。
「私がお慕いしているのは王太子殿下ではなくユリウス様です」
蕩けるような笑顔が見えたのは一瞬だけ。私はまたユリウス様に強く抱きしめられてしまった。
周囲の皆様がホッと息を吐いたのが伝わってきた。
「このとおり、ユリウスが王太子としてそれなりに評価されるまでになったのはアンネリーゼの存在があったから。そして、ユリウスを今後この国のために最大限有効に使おうと思えば王太子のまま置くよりもアンネリーゼと添わせて上手く御してもらったほうが良い。それが余の出した結論だ」
陛下が諦め半分という風に仰った。
「少し困ったところのある子だけれど、アンネリーゼの言うことはよく聞くはずだからどうかユリウスをよろしく頼むわね」
王妃殿下は優雅に微笑まれた。
何だか、私はずいぶん重要な役割を求められているようだ。
だけど、今まで知らなかったユリウス様の様々な顔を見てなお何度もときめいてしまった私に、彼の手を振り払って逃げることなんてできるはずもなかった。




