氷川夏美の包囲網! その3
夏美はもしや、幽霊部員にでもなってしまったのか。陸上部ではそんな噂が流れ始めた。
夏美にメールしてみてもまったく反応がないので最初の内はみんな気にしていたが、走ることだけが目的の陸上部では、普段から走りまわっている彼女を心配する者はいなかった。毎日毎日、学校の行き帰りに目的もなく疾駆している彼女に遭遇していて、元気なことは陸上部のみんなが知っていた。いつも通り元気な夏美は、電車の中でも駆けずりまわるほどの勢いで、今日も『羨望駅』にやってきていた。
捜索は、先輩が一人で行った一回も含めるとすると、五日目になっていた。日曜日だったが、ピアノ教室は相変わらず営業していない。しょうがないのでいつものようにコースを辿り、なにかこの不可解な依頼の解決の糸口がないか探し始めた。
今日は雲行きが怪しい。雨が降りそうで降らない不安定な天候だった。それでも夏美は先輩の要求を受けて、こうして休日の昼間を使って『羨望駅』にやってきていた。
もう道順は覚えてしまった。ついでに特になんの変化もないのでつまらなかった。人通りも相変わらず少なく、たまに道幅ぎりぎりのワゴン車が通り過ぎるくらいだ。
そして最後にやってきたのは、クマのぬいぐるみが置かれている名前のないお店だった。そのお店を見上げてみると、なんだか悪魔にでも取りつかれているような印象を受けた。それでも夏美は躊躇せずにガラス戸をスライドさせた。
「こんにちはー」
入店すると同時に、中にいた人が夏美に顔を向けた。
「あ、いらっしゃい」
そこにいたのはいつものおじいさんではなかった。すらりとした長身で、すべての髪を二センチくらいに切りそろえた清涼感のある男性だった。歳は、二十代後半といったところだろうか。休日だからかラフな服装で、黒縁の眼鏡をかけている。かなり高学歴で聡明な人間にも見えた。
その人はまるでこの店の店員のように挨拶をしたので、夏美は訊いた。
「あの、ここのお店の人ですか?」
昨日までは、ここにおじいさんしかいなかった。こんな人にあった覚えはない。
「あ、すいませんねお譲さん」と口を挟んできたのは奥の部屋から顔を出したいつものおじいさんだった。優しそうな顔で夏美を迎え入れようとしていた。
「そいつはわしの孫でね。ろくでもない仕事ばっかしてウチの厄介者だよ」
「そんな言い方しないでくれよ。僕だって頑張ってんだから」
店の奥を振りむいて孫らしい男は反論した。それからまた夏美を見て、少し頭を下げながら弁解を述べる。
「ごめんなさいね。僕は高梨って言います。ちょっとおじいちゃんに顔見せに来ただけなんですよ。それにしても、学生さんがこんな古びたお店に来るなんて、珍しいね」
ここに来る人間は昔から年老いた人ばかりなのだろう。夏美はここに来るたびにそんなことを考えるようになっていた。
「いえ、ちょっといろいろありまして」夏美は理由をぼかしてから続けた。「今日はお昼ごはんをごちそうになります」
すると、高梨は怪訝そうな顔をして、暖簾の前にいるおじいさんに向かって叫んだ。
「なにやってんだよじいちゃん。こんな若い子連れ込んで」
高梨がいきなり態度を翻す。
慌てて夏美が誤解を解いた。
「あ、違うんです。私がお願いしたことなんです」
夏美はこの数日で、おじいさんとの仲を深める作戦を実行に移した。おじいさんの扱いくらいなんてことない。息子や孫の話を――いや、孫のことは話したがらなかったが――それに戦時中の話を聞かせて下さいと頼んでみればほらこの通り。すぐに一緒にお昼を食べる関係にまで持ってこれた。自分を、話をよく聞いてくれる孫だと、勘違いするよう働きかければいいいだけのことなのだ。特別なことなどなにもしていない。聞いて笑ってまた聞いてを繰り返した結果がこれ。休日のお昼は親がいなんだ、と嘘をついてみたらすぐに昼食に誘ってくれた。ただそれだけの話。
「ええとでも、駄目なら駄目でいいんですけど」
可哀想な女の子を演じた。おじいさんなら放っておくはずがない。
「別にいいじゃろ、家に昼ごはんがないんだと」
「はぁ、勝手にしてくれよ。僕はもう帰るから」
そう言った高梨はなにやら荷物を持って去って行った。夏美は、ガラス戸を開けっ放しで門の外に出ていった彼の姿を、見えなくなるまで見つめていた。理由はわからないが、孫の高梨とやらは、相当おじいさんに鬱陶しがられているらしい。
「さ、あがってあがって。おいしいみそ汁とごはんを用意しておいたよ」
夏美はとっさに振り返った。「ありがとうございます」と告げてからガラス戸を閉め、店の奥へと足を運んだ。




