氷川夏美の包囲網! その1
「せんぱーい! 私にご用ってなんですか!?」
部室の扉を弾き開けるや否や夏美は爆音をとどろかせた。その姿を直視して、今日の放課後も騒々しくなりそうだと小守はため息をついた。
「取りあえず、椅子持ってこっち来い」
「はーい!」
気分の落差が甚だしい。さっきまで悩み耽っていた奴だと誰が思うだろうか。パイプ椅子を先輩の前まで持ってきた夏美は、大きな机の上にばら撒かれた紙類を見て驚いた。
「うわ。綾とかいう女からもらった資料って、こんなにいっぱいありましたっけ?」
「俺が昨日のうちにメモしたのもある」
小守が机の上を整理する。その中の数枚を夏美に手渡した。
「えっと、これは?」
「お前のために資料をまとめとておいた。これからお前には毎日、このコースを歩いて調べ物をしてもらう」
夏美の顔色が曇る。
「毎日ってあの、学校とかあるんですけど」
「平日は放課後。休日は昼間にやってくれ。もちろん、学校がある日は毎回ここで成果を報告してもらうぞ」
「あの、変則的にも部活があるんで毎日となるとちょっと……」
役目から逃れようと言葉を濁す夏美だったが、小守にはある秘策があった。
「最近、あれを勝手に、俺の許可もなく食いまくってる奴は誰だ?」
小守は部室の端っこを指さした。そこには大きな紙袋に入ったナボーナの箱が鎮座していた。夏美はナボーナを家に持って帰って家族に盗み食いされるのを恐れたため、この部室に置きっぱなしにしていたのだ。
「あ、あれ? 誰だっけ? 思い出せないです」
「その口がなにを言う」
迷いに迷った夏美はぽんと手をたたいた。
「ゆいかですよ! ゆいかが食べました! くっそぉぉぉゆいかのヤツっ! 直ちに連行して参ります!」
「誰?」
小守の疑問を解かずに立ち上がった夏美は、逃亡するように駈け出した。扉を開くため手を伸ばしたそのとき、勝手に扉が開いたので夏美は顔面を強打した。
「ぶっ!」
尻もちをついた夏美の前にいたのは、扉を開けたと思われる白河綾だった。
「あっ、すいません! 大丈夫ですか?」
介抱しようと綾は膝をついたが夏美は一人で立ち上がる。
「なっ、なにしにきたのよ? ここに用があるときは私を通してよっ!」
どうしても綾の存在が気にくわないので夏美はすぐに文句を垂れる。
「ごめんなさい。今度からそう――」
「――しなくていいから。すいません、夏美のいうことはあまり鵜呑みにしないで下さい」
目線を右往左往させて謝る綾の言葉を譲り受けて、小守がそう続けた。それから、「どうかしたんですか?」と後輩の怪我を労わりもせずに、そっと綾に尋ねた。
「あ、えと……見つかったかなと思って」
綾は床に目を向けたまま小さな声で呟いた。
「んな早く見つかるわけないでしょうが!」と若干一日しか耐えていない綾に対して、夏美が怒りの矛先を振りかざしていた。今にも襲い掛かりそうな野生の覇気を全身から放っている。
「で、ですよね? すいませんまた来ます!」
結局、綾は一切落ち着きを見せずに部室から走り去って行った。
それから五分ほどしてようやく正気を取り戻した夏美に、小守が再度命令した。
「食べたナボーナの分だけ働けよ。お前は文句を言える立場にないんだから」
「はぁい」
でも夏美は気分を悪くして口数がほとんどない。空返事しか返って来なそうだ。
「でもあの、教えて下さいよ。昨日どんなことを調べたのか」
「その紙見ればわかるだろ。ついでに現国の勉強にもなるかもな」
「ちゃんとやるんでお願いです。昨日あったことを先輩の口から聞きたいんです」
そう懇願された小守は少し悩んだ末、前日のことを語り始めた。
とっくに日が落ちていた。小守先輩からだいたいの内容を聞き、なおかつ、今日なにをすればいいのかを指示された夏美は、一人で『羨望駅』に到着した。駅から吐き出される憂鬱そうなサラリーマンたちと一緒に住宅街へ向かう。二、三十分ほどかけてピアノ教室までやってきた彼女は、その教室の状態を見て呆れかえった。
(今日もやってない……)
門から身を乗り入れて教室の庭を確認してみるものの、人っ子一人見られず、耳を澄ましても人の気配を感じない。もし誰かがいたらクマのぬいぐるみについて聞いてこいと、先輩から頼まれていた彼女は、取りあえずピアノ教室を起点とした経路を地図の通りに進んでみることにした。
しばらく進んでいくと自動販売機があった。ここの周辺を確認せよと紙に書いてあったので夏美は探してみた。自動販売機の上、下、汚そうで気の進まない裏の部分、隣に置いてあるカンビンのごみ箱の中。どこを探しても見つからない。ただ単純に手足がべたべたするばかりで少し気持ち悪くなった。ねえちょっと先輩、いくらないんでもこんなところにあるわけないじゃない。それに綾とかいう女はいったいなにを考えているのよ。本当に鬱陶しい奴。
薄汚れた手をハンカチで拭いた。少しやる気をなくしていた夏美は、さっきの先輩の言葉を思い出した。
――昨日、クマのぬいぐるみを売っている店のおじいさんに聞いたんだが、白河さんはどうやら、おじいさんが用意した紙袋にぬいぐるみを入れて帰ったらしい。つまりだ、いいか夏美? 探すのはクマのぬいぐるみじゃない。クマのぬいぐるみが入った紙袋を探すんだ――
当然と言ってしまえばそれまでだが、確かに夏美は勘違いしていた。ぬいぐるみをわざわざ小脇に抱えて帰る女子高生など見たことがない。そんな恥ずかしいことをするのは、外を縦横無尽に走り回っている空元気な小学生くらいだろう。
一枚の地図と、一枚の捜索ポイントについて書かれた紙を持って夏美はひた進む。すると前方から、着物を着て杖をついているおばあちゃんが歩いてきた。なんとも優しそうな顔をした小人みたいなご老人だ。その人とちょうどすれ違おうとしたとき、触れてもいないのにおばあちゃんは倒れた。
「あっ、大丈夫ですか?」
夏美は反射的に、転倒したおばあちゃんの安否を問うた。
「おやおや、すいませんねぇ」
よく転ぶらしく、おばあちゃんは他人事のようにそう言って自力で立ち上がった。よいしょ、という掛け声を漏らしてから、夏美に会釈をしてまた杖をつき、おぼつかない足取りで歩き始めた。
この人、本当に大丈夫だろうかと憂いた矢先、また先輩の言葉が脳裏をよぎった。
――近くの交番には俺がもう行ったがな、ぬいぐるみの類いは届いてないそうだ。それに、同じような用件でやってきた女の子がいたよってその警官笑ってたから、恐らく白河綾が一度尋ねたんだろうな。念のため駅員の人にも聞いてみたがなかった。白河さんは最寄駅から徒歩五分たらずの場所に住んでいるらしいから、そこは探さなくても大丈夫だろう。大事なぬいぐるみを失くしたんだし、一旦駅まで戻ったはずだからな。そこでなくなったとは考えにくい。つまり見つかる可能性があるとすればだ、ピアノ教室から『羨望駅』のルートしか考えられないんだ。周辺捜索をしたいのは山々だが一軒一軒訪ねるのは怪しまれる。だからさりげなく、道行く人たちに声をかけて聞いてみてくれ――
夏美は、おばあちゃんの後ろから声をかけた。
「あのっ」
そのおばあちゃんは一旦停止してから、ゆっくりと振り返った。「おや、なんでしょう?」
「最近、ここらへんで紙袋を見かけませんでしたか? クマのぬいぐるみが入ったやつです。とっても大事なものなんで、ちょっと探しまわってるんですけど」
きっと、街ゆくサラリーマンよりも毎日この周辺でたむろっているおばあちゃんのほうが精通しているだろう。そう思った夏美は思い切って訊いてみた。
「ああ、はいはい、聞きましたよ」
それは夏美にとって予想外の返事だった。
えっ? 聞いた? どういうこと?
「えっと、見たんですか?」
おばあちゃんは足踏みするように小刻みに向きを整えながら言った。「いやいや、聞いたんですよ」
情報を持っていそうだけど少し返答がおかしい。もしかしてこのおばあちゃん、ちょっとボケが入ってる?
「あの、おばあちゃん、見たんですよね?」
「いえいえ、聞いたんですよ」
なんだか腹が立ってきたので夏美は声量を上げてみた。
「聞いたんじゃなくて、見たんじゃないんですかぁ!?」
「いやいや、聞いたんですよ」
耳が遠いせいか、おばあちゃんは大声をものともしない。夏美はもう諦めて道なりに歩き出した。話をするだけ無駄だと思った。
「昨日でしたかねぇ。制服を着た妙な男の子から聞きましたよ」
夏美はとっさに進路変更しておばあちゃんに駆け寄った。おばあちゃんが言っていたのは昨日の出来事だったのか。おそらくは昨日、先輩とこのおばあちゃんはすれ違ったんだ。そのときにぬいぐるみのことを知ったんだろう。
「その男の子、なんて言ってましたか?」
「なんだったかねぇ、最近は物覚えがわるうてわるうて、同じコースしか歩けなくなってしまって、歳をとるといいことがないねぇ、ああ、お譲ちゃんにはまだわからないかねぇ」
そんな愚痴を聞きたいんじゃない。
「あの、おばあちゃんはクマのぬいぐるみのこと、なにか知ってるんですか?」
「わたしが知ってるのはねぇ、クマのぬいぐるみが、この先の小さなお店で売ってるってだけのことさねぇ。名前もない店だから、めずらしいと思っとったのよ。学生さんがわざわざあんな老舗でものを買ったなんてねぇ」
おばあちゃんは夏美が進もうとしていた道の先を指さした。その指先が示していた先を地図で確認すると、ちょうど綾がぬいぐるみを買ったと主張していた場所と合致する。
「おばあちゃんは、どうしてそんなお店を知ってるんですか?」
「友達なんよ。その店のおじいさんと。さっきもちょっと喋ってきたばかりでねぇ」
なるほど。老い先短い人生を共有しようとしているのか。
それにしてもいきなり当たりくじを引いた気分だった夏美は、さらに質問した。
「最近、そのおじいさんのお店に女の子は来ましたか?」
「んん? なんか言っとったきがするねぇ。ちょうどお譲さんくらいの子が来たって」
間違いない。白河綾だ。怪しいとは思っていたけど、どうやらクマのぬいぐるみを買ったことだけは確かなようだ。
「久しぶりの来客だって喜んでたねぇ。これ全部、昨日の男の子にも伝えたことなんよ」
えっ、と思って夏美は紙を見た。斜め読みしていくと、確かにそんなことが記述されている部分があった。そういえば、先輩はかいつまんで話していた気がするし、やっぱり余計な部分は省いていたのかな。
「では、わたしはこれで」
そのおばあちゃんは夏美に軽く会釈して、アリが歩くくらいの速度で遠ざかって行った。




