先輩と私
翌日の昼休み。
授業中はいつも居眠りをしているはずの夏美が起きてる。それだけで二年C組はどよめいていた。廊下側の一番前に席を構える夏美が、わざわざ片肘をつき、遠くにある窓の外に目を向けて呆けていたのだから、クラス内で気づかぬ人間などいなかった。それも一時間目から四時間目までずっとだ。授業をしにきた何人もの先生が体調不良を危惧したものの、夏美は誰の呼びかけにまったく反応しない。話しかけてもしらを切りとおしているのか、あるいは視界に入らないのか。定かではないが、昼休みになるまでずっと淀んだ瞳で窓の外を見つめ続けていた。
「なっつみ! お昼だよお昼!」
人が少なくなったクラスで軽々と話しかけたのは、友達の風見ゆいかだった。サクランボ形の髪留めを二つ使って小さなツインテールを作っている小柄な少女だ。
ゆいかは一年のときから夏美と同じクラスで親交が深い。友達だからこそ朝から不安で不安で仕方なかっが、なぜか躊躇ってしまい話しかけることができず、今になってようやく、明るい声での接触を試みている。
「夏美のお昼ごはんはなにかな~? 教えてくれないなら漁っちゃうぞ! あっ、今日はお弁当? それとも私と一緒に購買? それとも~」
化石のようになっている夏美をなんとかしてやろうと、ゆいかは机の横にかかっている鞄のチャックを開いた。それでもビクともしないようなので今度はしゃがみ込んで少し中をのぞき、続けざまに手探りに移行する。そしてようやく、お昼ごはんらしきものを掴み取った。
「あ、今日はお弁当だったか~、お母さんの愛を感じるね~!」
夏美が無反応なので、ゆいかはついにそのお弁当を引っ張りだした。
「きっとおいしそうなおべんと……ってあれ?」
ゆいかが手に持っていたのはインスタントのカップラーメンだった。しかもその上部には二十パーセント引きの特別なシールが付いている。さらにその上にはポストイットが張られており、「食堂かどこかでお湯貰って!」という親からのメッセージが躍っていた。
「あっ、今日は随分と……お手頃なお弁当なんだね……?」
苦笑したゆいかはカップラーメンをそっと鞄に戻し、夏美の横顔を見つめた。よく見るとその瞳は少し光って見えた。涙だろうか。
少し考え込んだゆいかが唐突に、廊下を指さして叫んだ。
「あっ! 小守先輩こんにちは!」
「えっ!」
夏美は声を漏らしてせわしなく体を動かした。ゆいかの指さす廊下に目を向けるがそこには誰もいなかった。
「嘘ついてごめんなさい。でもやっぱり、小守先輩のこと?」
全身で落胆を表現するような夏美に、ゆいかは優しく声を掛けた。
「なにかあったの? 気分が悪いとお昼ごはんがおいしくないよ?」
「食べないから、別にいい」
しれっとした態度だが、やはり夏美は落ち込んでいるようだ。
「カップラーメンのお湯貰ってきてあげるからさ。それにパンもおごってあげるから一緒にお昼食べよ? 今日は天気がいいから屋上にでも行こうよ? ね?」
ゆいかは子供をあやすような声を出した。
「お腹すいてるでしょ?」
「別に」
そのとき、夏美のお腹がぐぎゅるると呻いた。
「べ、別に……」
「じゃ、先に屋上行ってて。ラーメンのお湯とパン買ってくるから!」
「えっ、ちょっとゆいか!」
少し手を伸ばしてとめようとした夏美だったが、ゆいかは間髪をいれずにカップラーメンを盗み出し廊下を駆けて行った。一人取り残されたような名残り惜しさを感じ、迷っていた様子の夏美は思い切って席を立った。
昼休みに屋上を利用する生徒はそう多くはないがゼロというわけでもない。かつかつと規則的なリズムで階段を上り、扉を開いた夏美は屋上を見渡した。いるのは十人やそこらくらいだ。あまり大騒ぎしている生徒がいないことを幸運に思い、できるだけ人から離れたベンチに腰をおろした。
するとまたお腹が鳴った。今日はこいつのせいでこんなことになったんだと彼女は一人で憤慨する。もう少しで心のもやもやを解決する手立てが見つかるはずだったのにと、なんとなく感じていた。
なんとなく。本当になんとなく――
お腹を押さえてふと目線を上げると、十メートル以上離れたはす向かいのベンチに見覚えのある人物を捉えた。
(せ、せんぱい!?)
カップルらしき生徒が座っているベンチが両側にあるのに、平然とした顔で読書に耽りおにぎりを頬張っている小守先輩の姿があった。先輩がこんなところでお昼を食べていたなんて知らなかった。全然知らなかった。聞いたこともなかった。
(結局私は、先輩のことなんてなんにも知らない――)
するとまたお腹が鳴って空腹を夏美に知らせた。よく思い返してみれば、昨日の夜からろくに食べ物を口にしていない。どんなものも喉を通らず、水すら飲む気がしなかった。そんな今でも、空腹なんか相手にしてられないと夏美は無視しようとする。でもまた鳴った。止まる気配がない。食べ物を欲するお腹はそれから何度も何度も蠢いて、食べ物を乞うた。
「ああああもう、うるさいうるさい! 今考えてんだから黙っててよ!」
ついには声を張り上げて立ち上がってしまった。何事かと周囲が沈黙して夏美に視線を注いでいる。その中の一人に、学年一位の小守先輩も含まれていた。
(やばっ!)
即座にベンチに座り込んで俯くと、何事もなかったかのように屋上の生徒たちは会話を続行した。
(なにやってるのよ私っ!)
声にできない心の声を噛みしめて、夏美はおそるおそるはす向かいに目をやった。
すると小守先輩はもう読書に戻っていた。気づいていないわけがないのにどうして声をかけてくれないのと思うと、やっぱり心細かった。
ふいに夏美は、胸ポケットから生徒手帳を取り出した。
(恋は先手必勝、愛が欲しけりゃ掴み取れ――)
生徒手帳の最終ページには、自分で書き留めた格言があった。あれだけの不安要素を好きな本人から言われても諦めきれない。だって好きなんだから。
(だめだだめだだめだ! こんなんじゃお嫁に行けない!)
弾かれたように夏美は生徒手帳に付属されている小さなボールペンを握りしめ、さらに続きを書き加えた。
(――好きは嫌いの裏返し、嫌いは好きの裏返し――)
一筆書きのような乱雑な字だったが、その文章を記したことでなにかが夏美の中に芽生えた。なにかは自分でもよく分からなかったが、確かに芽生えた。
もうお腹は鳴らなかった。夏美は先輩の元へと歩み寄った。
「せ、せんぱいっ!」
震える唇を見られまいと手で軽く押さえながら続ける。
「先輩にいくら嫌われようとも私は大好きです! ごめんなさい仕方ないんです! 今日の放課後、また部室に行かせて下さいお願いします!」
両側にカップルがいるというのに夏美はそんなセリフを吐いた。また騒然とした周囲からは小さなざわめきとともに、後押しするような口笛が響いた。
「お願いします!」
火照っている頬をどうすることもできず、とにかく深く深く頭を下げることだけを考えた。するとそれを応援する生徒たちが拍手を始め、声援を投げてきた。
「誰か知らんけど頑張れぇ!」
「ほら、さっさと答えてやれよ!」
いつの間にか告白を支持する人たちで溢れていた。それでも目をつぶったままで顔をスカートに向けている夏美はじっとその返答を待った。
そして、声援がやんだ。
春風が頬を撫でた瞬間に先輩の声が届いた。
「なに言ってんだ。今日はお前にやってもらいたいがあるから必ず来い。必ずだぞ?」
何食わぬ顔で言い切り、先輩は読書に戻っていった。
勝利を確信したまわりの生徒たちが更なる拍手を夏美に送った。お祭り騒ぎの中、嬉し恥ずかしそうに微笑んだ夏美がその中心にいた。
「なっつみー、ラーメンのお湯入れてきっ……」
片腕で上手く扉を開けたゆいかは屋上の状況に絶句した。さっきまで瀕死状態だった夏美がすっごい笑顔でまわりの生徒たちと握手していたのだ。有名人にでもなったのかと思いきや、一人動かざるが山の如しと言った感じの小守先輩を見つけ、大まかな展開を掴んだ。ゆいかは屋上には入らず、静かに扉を閉め、心底嬉しそうな顔でその扉にもたれかかった。




