解答屋
ふっと意識を取り戻したその瞬間に曜日が一つ動き、大安の水曜日になっていた。そう結論づけるのが、理論的、物理的、心理的思考から導き出すと最も合点がいくようだ。
パシッと軽めに頬をたたいてみる。
やわらかい感触とつんとした程度の低い痛みがやって来て、じんじんとした。
ああ、一体なにがあったんだろうか。俺は丸一日、気絶でもしていたのだろうか。
どうやらそれが一番、小守悠介にとって納得のいく説明だった。
いつの間にか授業中、それに日が差し込んでくるのでまだ昼前のようだ。物理の先生が生徒たちに向かって一方的な授業を展開している。
去年からずっと思ってたこと。この先生の説明は絶対に生徒受けしないということ。
物理と数学が根本的な部分でリンクしてるって解説は別に間違っちゃいない。どっちも自然科学の一分野だからだ。でも考え方や導き方が少しずつ異なってくるんだよ。それをわざわざ混ぜこぜにしたような授業で進めていっちゃあ、そりゃあ誰もついてこれない。俺が教壇に立って説明した方が少しは役に立つと思うんだけどな。
小守は、このどうしようもない先生を心の深間で蹴散らした。
「教科書三十七ページにある、このホームベースみたいな形した五角形の重心問題、わかるやつ、前に出て解いてくれ」
しーん。
「おい誰かいないのか? 手を上げろ」
静寂。
誰かがペンを動かす音すら聞こえない。
このクラスはあまり優秀なクラスではない。それに物理を専攻している人間は一人もいないので、ハナから物理学に興味のない奴が多い。
ただ、物理ではメジャーな重心問題の解法すら満足に教えられない先生なんて、生徒たちからしてみれば一種の拷問に匹敵する。まわりくどい説明なんかしなければ寝る奴なんていないだろうし、誰にだって理解できて答えられるはずだ。式も短いし。
「じゃあおい、『解答屋』の小守悠介。どうせ暇だろ? こっち来て解け」
ひげ面の先生が手招きしている。小刻みに。
ああ、どうして一番後ろにいる俺に順番が回ってくるんだ。俺だって物理を専攻してるわけじゃないし、『解答屋』なんて職種に就いた覚えもない。
「ちょちょいと説明も加えてくれよ。どの公式をつかってどんな考え方をしたのかもだ」
はいはい。
頼りは生徒だけってね。
小守は教科書を持って教壇に向かい、チョークでさらさらと解法を書いていった。一糸乱れぬその文字、思考、解法、そして芸術的なリズムを刻むチョークの音。すべてが完璧でムダな動きが存在しない。
そして幻惑。
冷静でありながら、残像を見せるほどの気迫を生徒たちに見せつける。
三年C組の生徒たちは、類い稀なる天才の軌跡を目の当たりにしていた。
小守がチョークを放り投げる。ついでに先生の座をも奪って懇々と諭す。
「重心を求めるにはこの五角形のまま考えてはいけません。これは俺が引いた補助線、つまりここ。これによって三角形と四角形に分断して解いていきます。四角形のほうならば、重心Wは言わずとも知れたこと、ここですね。つまり残った問題はこちら、三角形の重心の求め方となります。これは面積比を考慮した、いわゆる逆比という考え方をするのですが――」
そのとき、ピリリリリと携帯電話の音が鳴り響いた。
「おい誰だ! 携帯電話は禁止だってあれほど、校長が言って、た、だ……」
物理の先生は音源に近づいていく。近づけば近づくほど犯人が明確になる。
「はい、小守ですが?」
教壇の上に立ち、携帯電話を片手に平然と話し始める小守。
物理の先生は驚愕して、さらには当惑して、声を出せずにいる。
「はい、はい。え、お孫さんと一緒に解体業者の人が来た? じゃあそれって、おじいさんの土地を売り払おうとしてるってことですか?」
その会話内容が重く、さらに声を出せなくなる物理の先生。
席に座る数十人の生徒たちもその会話に聞き入っている。
「その解体業者の名前だけ覚えておいてもらえますか? はい、今から向かいますので、お願いします。はい、あとですね、できればお孫さんの連絡先もお願いします。はい。いろいろとすいません」
通話を終えた小守は、携帯電話をポケットにしまった。
「先生」
「え、あ、なんだ?」
「用事が出来たので早退します」
物理の先生を一瞥して、小守は自分の席へと駆けだした。机の横にひっかけてあった鞄にすべての道具を落とし入れ、後方の扉から飛び出していった。




