喪失
「たった一人のファンが、絶対に幸せになってはいけない。それが白河さん、あなたの考え方で間違いないんですよね?」
「そうですけど、それが?」
「だとしたらおかしいんですよ。どうらやら白河さんはご存じないようなんで言いますけど、『羨望駅』にあるクマのぬいぐるみの店では今、あるトラブルが起きているんです」
「トラブル?」
「ええ。あの店に住んでいるおじいさんのお孫さん、つまり高梨さんが、そのおじいさんをどこかほかの家に移住させようとしてるんです」
「えっ、そんな」
綾は大きく目を見開いて驚いた。そんな話は聞いたことがない。
「どうしてそんなことするのか、ずっと考えていました。それがたった今、白河さんの話を聞いてようやく筋が通りました」
綾と、ついでに夏美は、理解にまで及んでいない。
「一か月前から何度もおじいさんの店にやってくる高梨さん。ベストアルバムを出して活動を休止しているウルス。そして、あなたをそのビジュアル系バンド、ウルスに惹きこませた原因でもある九条マリアさん。ここまで言えば、もう分かりますよね?」
そういうことかと、綾はため息をついた。
「はい、度々すいません、九条マリアさんは確かにもういませんね」
「えっ、あれっ? 二人だけで納得しないでくださいよ!」
ぴーぴーと憤慨する夏美に、小守が真相を話しだした。
「インターネットにはな、ヨシキさんに最近、配偶者ができたと書いてあったんだ。つまり結婚したってことになる。その結婚相手はおそらく、九条マリア」
「えっ、じゃ、じゃあ、この女が本当の気持ちを言わないのって――」
小守が夏美に向かって、うなずきを返した。
「九条マリアが高梨ヨシキとくっついて、高梨マリアになってしまった。そんな幸せの場を引っ掻きまわすような真似はしたくない、つまり、ちょっとした心遣いからだろうな」
「……」
綾に反論の余地はなかった。
「一ファンが好意を伝えちゃいけないのなら、九条マリアにだって該当する。いくら二人が高校時代の友達だからってファンはファンだ。ファンサイトまで運営し執着を抱くあなたならば結婚の話題を知らないはずがない。ゆえに、恩ある九条マリアを批判するようなセリフを吐くのはおかしい。そう思ったんです」
小守はすべての推論を言いきって、ため息をついていた。そんな彼にひとつだけ、綾は訊いてみたいことがあった。
「どうしてそんなにすらすらと、私の心が読めるんですか?」
小守はあくまで平静を装う。
「単なる状況証拠の羅列ですよ」
「私はこれから、どうすればいいんでしょうか?」
唐突に質問が切り替わった、
「一度会ってお礼を言いたいんですけど、それでも、会ってしまったら好きだって告白してしまう気がして。私、どうすればいいんでしょうか? これ以上は、追及しないほうが利口なんでしょうか?」
「いや、それはその……」
本人の意思を仰ぐべきだと思っていた小守は、途端に言葉を詰まらせる。
「もし、学年一位の小守さんがどんな形でもいいから、私の稚拙な嘘を見破ってくれたなら、再度、ちゃんと依頼して会いに行こうって決めてたんです。だけどここに来てもまだ、決心が揺れ動いてます。やめたほうがいいんじゃないかって。忘れたほうがいいんじゃないかって」
膝をすりむいた子供のように鼻をすする綾。
小守はどうにもこうにも答えを出せない。
「教えて下さい! 私はこれから、どうすればいいんですか!?」
先ほど言った依頼をはねのけて、綾は身を乗り出して小守に懇願した。小守は両手を掴まれて、涙がとまる気配がない綾の瞳をじっと見つめる。彼は思わず、健気で愛らしい、まるでクマのぬいぐるみのような彼女に見惚れてしまった。
「お願いです……お願いだから……!」
徐々に力を失くしていった綾は、また椅子にもたれて脱力してしまった。まるで、すべての体力を使い果たしてしまったかのように。
小守が一つの結論を口にしようとした瞬間だった。
「会いに行けよ、このバカ女」
呟いたのは小守ではなかった。部屋の隅っこでただ間食をしていた小生意気な少女、氷川夏美だった。
「さっきから聞いてりゃあチンタラチンタラ言い訳ばっか垂れやがって! 好きなら好きって正直に言っちまえばいいだろうが! お前はなんのためにここに来てんだよ!」
夏美は、小守でさえ初めてみる恐ろしい形相になり豹変していた。泣きながらその顔を見つめた綾は、夏美から目を離せなかった。
「いいか! 恋愛には好きか嫌いかしかねぇんだ! 恥ずかしいとか、結婚してるからとか、利口だとか、細かいことは関係ねぇんだよ! 高梨との予定くらいこっちでいくらでも合わせてやるから、いいからさっさと告白しちまえばいいだろ!」
綾の隣まで来て夏美はそう説教をした。
「やめろ夏美! これは白河さん問題だ!」
「うるせぇな! 女の恋愛に口出しすんな! ガリ勉野郎は黙ってろ!」
「がっ、がががっ……!」
小守はあり得ない後輩の言葉に、意識を飛ばしかけていた。
「ともかくだ! こっちはお前が高梨を好きだって前提で動いてんだよ! いまさら依頼を取り消すなんてバカなこと、すんじゃねぇぞ!」
「はっ、はい!」
ほとんど強制的に同意させられた綾は、涙を枯らして返事をした。夏美は満足したように「よし」と呟くと、また部屋の隅でぱくぱくとナボーナをひとつ、平らげた。
「あっ、えっとじゃあ、高梨さんが会える日付と時間が決まったら、ここに連絡して下さい。必ずや、習い事を休んで予定を合わせますので!」
意外と元気な綾は、座ったまま丁寧に礼をして部室から去っていった。
小守の前の机には、白河綾の携帯番号が書かれた紙が置かれている。しかし失神しかけている彼は、まったくもってそれに気付かず、白目をむいてままだらしなく呼吸していた。




