依頼人、白河綾
決して勉強が好きというわけではないが、小守は幼いころから勉強することをたたきこまれてきたため、すぐには家に帰らず、できるだけ長く学校に残り宿題や予習復習に身を投じている。日が半分ほど沈みかけた赤褐色の夕方、四階の空き部室に突入してきたのは、例によって小守の追っかけである一人の学生だった。
「せんぱーい! テストが近いんで数学を教えてくださぁい!」
毎回扉を壊しそうになるほど押しあけるので、小守は夏美の成績よりも扉の寿命を心配していた。夏美は夏美で昨日の教訓を踏まえてか、きちんと制服を着用していた。
「ほらっ、私完璧じゃないですか! 思い切って夏服で勝負することにしましたっ」
肩に掛けているバックをたたいたり片手でショートヘアーの髪をなびかせたりとせわしない夏美を一瞥し、小守はまた教科書と向き合い赤ペンで自己採点を続けた。
「あれ、先輩なにやってるんですか?」
「見てわからないのか勉強だ。テストが近いからな」
キュッキュッと丸をつける単調なリズムが響く。ノートを一枚めくった小守は最後の問題にはなまるマークをつけて赤ペンを軽く放った。
「よし」
「やっぱり先輩は凄いです。数Ⅲの問題集完璧じゃないですか」
夏美がノートを覗き込むと、機械のように綺麗な字で書かれた解答の上にはなまるマークが花を咲かせていた。
「まあ今回の範囲内だけの話だけどな」と小守は謙虚に返し、ノートを閉じて大きく背伸びをした。授業中も含めると十時間ほどほぼぶっ通しで勉強をしていたのでさすがに疲れていた。
パイプ椅子をずるずると引きずってきた夏美がちょうど小守の真正面に座りこんだとき、学年一位の秀才はさっと勉強道具を鞄に滑り込ませて席を立った。
「あれ? 勉強は?」
「今日は終わりにする。解散していいぞ」
呆然とする夏美の横を通り過ぎていく小守。
「き、昨日は教えてくれるって言ってたじゃないですか! なのになんで――」
「昨日は校長がいただろ。せめて勉強を教えてやるっつう意思を示そうと思っただけだ」
床にへたり込んだ夏美が小さく「そんなぁ」と言ってうなだれた。
「私も先輩みたいに頭良くなりたいんです! 勉強を教えてください!」
気迫で呼び止めようとした夏美を振り返ることなく小守が口にする。
「二十、十二、十一、八、五」
「な、なんですか?」
淡々としたカウントダウンのようだったので、怖くなった夏美は半歩後ずさった。
「わからないのか? お前自身のことなのに」
「私自身?」と言って考え込んでから「あっ、もしかして」
扉のノブを捻った小守は鬼の形相で振り返る。
「お前が期末試験でたたきだした成績だ! 俺が必死こいて教えてやった数学がたった『五点』とはどういうことだよ! やる気失せるだろ!」
一年ほど前から一方的にやってくるようになった夏美に勉強を教えていた時期は確かにあった。しかしまったく成果が上がらないため、小守は高校三年にあがった今、成果が出ないこの女子生徒をとうとう見限ろうとしていた。
「学年最下位をキープするなんて親に申し訳ないとか思わないのか?」
夏美はぼそぼそと小さな声で言い訳する。
「いやあの……私ちゃんと勉強してるんですよ? 先輩に言われた通りのやり方で数学の同じ問題だけずっとやりました。そうしたら取れたんですよ、五点も!」
「ほかの問題も解け! 基本問題だけでも六十点は取れる教科なんだぞ!?」
「す、すいません。テスト中だったんですけど、先輩から教わった問題解き終わったらすぐに寝ちゃって。でも追試はちゃんとできたんだから許して下さいよ~!」
夏美は部活をさぼらない癖がある。いやそれが普通なのだが、成績のことを考えるとおちおち陸上部で運動に呆けている暇などないはずだ。それが裏目に出ていたらしい。
「もしかして、自主練ってやつか?」
「はい。先輩から教わった問題が解けるようになったのが嬉しくて嬉しくて仕方なかったんです。テスト前だったんですけど、夜道を走らずにはいられなかったんです」
願うような手と手の握り方をしてぶらりと腕を垂れている夏美は黙り込んでしまった。夕日の逆光がより一層、彼女の悲しみを際立たせる。
「わかったよ。わかったから、もうわかったから」
小守は夏美に歩み寄り、そっと肩に手を置いた。
「今日は俺が都合悪いんだ。つっても勉強のしすぎだけどさ、明日の朝でも放課後でも付き合ってやるから、好きな時間にここに来い」
夏美はゆっくりと顔を上げた。
「いいんですか?」
「これで成績が上がらなかったら、追放するからな」
優しい先輩に感動して涙ぐんでいた夏美だったが、それに横やりを入れる音が室内に侵入してきた。
「すいま、せん……?」
ぎぃぃと怪しい雰囲気を醸し出して誰かが部室の扉を開いた。十センチほど開いたところでひょっこりと顔が出てくる。長い髪がゆらりと揺らめいて扉からはみ出ていた。そして室内をじっくりと確認した誰かは、向き合っている二人を見つけて目を伏せた。
「あっ、だだだ、だめでしたね。ごめんなさいごめんなさい!」
そのまま誰かは走り去って行ったので、小守はわずかにあいた扉に向かって叫んだ。
「ちょ……違います! 待って下さい!」
いい感じの恋人のように見えたのだろうと思った小守は、涙ぐんで心ここにあらずの少女を放り出して、誤解を解くために廊下を疾走した。
警官が逃亡犯を引き立てるようにして、小守は誤解を解きながら、その女子生徒と一緒に部室に戻ってきた。彼は掴んでいた女子生徒の手を離さずに、先ほど夏美が使っていた席まで連れてきて座るように促した。しかし、なにかに脅えている様子で確かめるように椅子に腰をおろした女子生徒は、すぐに目を伏せたまま石のように動かなくなってしまった。
小守がその向かいに座わり、夕日の光を背中に浴びながらその女子生徒に質問した。
「えっと、俺になにかご用で?」
その一文字一文字にびくびくしながら、女子生徒は息を呑んだ。
「その前に先輩、なんで連れ戻してきたんですか? 今日はもう帰るんじゃ?」
「お前は黙ってろ」
邪魔をするなと手をかざして指図する小守。夏美はむくれてそっぽを向いた。
「勉強なら教えますよ。あなたのような人ならいくらでも」
「あ、ありがとうございます」
少し相好を崩した女子生徒に、小守は笑顔をふりまいた。
「教科はなんですか? 女の子が苦手な数学から地理日本史世界史、さらには物理化学生物、英語まで揃って――」
「ちょっと待ってください!」
部外者のような扱いを不服に感じた夏美が、座って小さくなっている女子生徒の隣まで堂々と歩み出て、大声で怒鳴った。
「だから、邪魔をするなって」
「どこの馬の骨とも知れない怪しげな生徒に私の先輩は譲れません!」
夏美は了承も得ずに学年一位の大先輩を私物化した。小守はいい加減あきれたような顔している。しかし夏美の発言で気づかされのか、女子生徒はいきなり起立をした。
「さ、三年A組から来ました、白河綾です!」
いきなりの自己紹介を終えると、綾は緊張からか硬直してしまった。隣にいた夏美が不思議そうにその顔をのぞき込む。すると綾の表情は完全にこわばっていた。
夏美がいたずらに綾の肩をたたく。瞬間に綾は飛び跳ねそうなくらい身を震わせた。
「あ、はい! 結構前ですけど友達が噂してて、勉強以外のことも相談に乗ってくれるという話で、それでそれから、相談がありましてここに来ましたよろしくお願いします!」
綾は素早くお辞儀した。
「相談? 勉強以外で?」
「あ……もしよかったら勉強も教わりたいんですけど、その前にその、少しだけ相談を」
「なんて厚かましい女なの!?」
夏美が驚嘆する。今日初めてやってきた白河綾のほうが一学年上のはずなのにそんなことはお構いなしにずばり口にした。
「いいですよ。どんな相談ですか?」
小守の懐の広さに夏美が茶々をいれる。
「そう簡単に受け持っちゃいけませんよ先輩。いつもいつもいろんな人からの相談に乗ってきたから今の今まで、校長先生に文句つけられてたんじゃないんですか?」
言われた当の本人は「いーんだよ」と口にして夏美を相手にしなかった。
そのとき一瞬、小守は夏美に素敵な笑顔を見せていた。
「も、もう! 勝手にして下さい!」
ほんのりと顔を赤らめた夏美が部屋の隅っこの方でうずくまった。誰にも顔を見られないように二人には背中を向けている。
「さ、邪魔者はいなくなりましたし、どのようなご相談で?」
「はい、あの……」
一呼吸入れて息を整えたのち、綾は初めて、小守を直視して訴えた。
「クマのぬいぐるみを、探していただきたいんです」
今日、小守の帰り際に転がり込んできた女子生徒は、勇気を振り絞った影響からか少しばかり目を潤ませていた。
久しぶりにきた生真面目な相談事に、小守は瞳を光らせた。




