プロローグ 「秀才と校長とストーカー娘」
白坂高校の四階の空き部室にとんでもなく頭のいい人間が住みついている――なんて噂が浮上したのは一年ほど前の話だ。当時は一体どんな秀才がいるのかと生徒たちが総じて気にした大事件だったが、今となってはただの共通認識に成り下がった。年を越えてまで騒ぎ立てるような人間などそういない。この高校も、そんな一般的な生徒がほとんどだった。
ときは五月半ば。中間試験を二週間後に控えた放課後に、その四階の空き部室で一人黙々と勉強をしている男子生徒がいた。名前だけだが、すっかり有名人になった彼は、人込みを嫌い、こうして廃部になったとある部室を占拠してノートと小一時間睨めっこを続けている。
彼が作り上げた、ペンを走らせる音しか響かない空間をぶちこわして入ってきたのは、白坂高校の校長である小早川聡だった。
「入るぞ!」
扉を荒々しく蹴飛ばしたかと思いきや、閉めもせず足早に目的の人間の元へと足を運んでいく。小さな風で飛ばされてしまいそうな細い白髪を乗っけた初老の人間だった。とてもじゃないが、徳を持つ人間がする行為とは思えない。
「おい、こっちを向け!」
部屋の奥付近をまるで社長のように広々と使っていた男子生徒は、計算式を途中でストップさせ顔を上げた。そこにいたのは、当然のように耳までかかっている髪に、眼鏡も掛けず幼げな顔立ちをして学年一位をキープする学生だった。彼の机の上には、自前で用意したライトスタンドまで置かれている。
「まず髪を切れ! それにお前、校則違反とわかって休日にイヤリングしてるだろ? 今にこの学校から追放してやるから覚悟しとけ! それからな――」
彼の諸所を指さしては不満を吐きだしていく校長は、日に日にたまっていたストレスを全て発散したかのような深い息づかいで、一人の男子生徒に対する文句を言い切った。
「わ、わかったか……? 次回まで……に、直さ、な、かったら……即刻この学校から」
「一年前からずっと、何度も何度も、同じようなセリフを聞き続ける俺の身にもなって下さいよ。もう飽きました。ホントに飽きました。はい」
そう言って、うーんと背伸びして体をほぐす礼儀のなっていない男子生徒を、さらに校長が罵る。
「飽きた? 嘘をつけ、お前はみたいな人間が将来のさばるんだ。大人しく自分を改めろ!」
そしてまたさらに言い寄ろうとしていたが、
「もういいですよ。明日、散髪行ってきますから」
「それだけじゃ駄目だ。イヤリングの跡とそのだらしない服装もなんとかしろ」
さらに指で指定しながら校長は批判を並べた。だいたいイヤリングなら、耳たぶにほとんど跡が付かないはずなのだが――
つまるところ、それほど校長は目ざとい人間なのである。
男子生徒の服は学校指定の紺のブレザーだ。シャツの上にはネクタイをつける決まりだが、そのネクタイの形を上手く崩して着用していた。
「はい。わかりました」
「これだから頭がいいやつは嫌いだ。嘘ばかりつく。どうせ明日散髪なんか行きやしないだろ? お前が通っている美容院は火曜が定休日だろう」
「ご存じだったんですか。光栄です」
男子生徒はにこやかに笑い、椅子から立ち上がって片手を差し出した。
「ふん。猫かぶりの生徒なんぞに付き合ってられるか!」
その手を見向きもせずに踵を返した小早川の背中に、男子生徒が問いかける。
「小早川校長。校長がここにいらしたのはそんな些細な文句を垂れるためじゃないんでしょう?」
扉を片手にぴたりと立ち止った校長は、つま先だけ廊下に出ていた左足をひっこめて乱暴に扉を閉めた。
「お前のような生徒は持ちたくないものだな」
「歳をとれば、そりゃ物忘れも多くなりますよ。どうかお気を落とさずに」
男子生徒は腰をおろしながら校長をなぶる。
「警告だ。お前の本来の目的を忘れてもらっちゃ困るんでな」
向き直った校長は今までとは打って変わって。粛々と明言する。
「なんのために廃部になった部室まで自由に使わせてやってると思う? これ以上、生徒たちの妙な私情に首を突っ込むつもりなら、卒業証書は渡さんぞ」
そんないまさらの告白。それを鼻であしらおうとする男子生徒は、勉強を再開させながら校長の相手をする。
「俺が小早川校長先生から与えられた使命はこの学校の偏差値を上げることでーす。そのために頑張って勉強していまーす。だから邪魔なんでそろそろお帰りいただけませんかー?」
「ふざけた口を利くな。高校三年にもなって突然の退学――親御さんはさぞかし悲しむことだろうな」
「俺の家族は飼っているハムスターだけなんで御心配には及びませんが」
なにもかも知ってるくせにと、男子生徒は強くペンを握りしめた。
「お前の目的はそれだけじゃないはずだ」
「わかってます。そのために俺自身の勉強は必須なんです」
少し色濃くなったペン先で計算を続ける。心なしか男子生徒の解答スピードが向上しているようにも見える。
「もう一度言っておく。お前がまず第一にしなければならないことはだな――」
そのとき、校長の後ろにあった扉がばぁんと開かれ、一人の学生が飛び込んできた。
「こもりせんぱーい! かなり遅れてすいませーん! 今日も勉強教えてもらいに来ましたぁ!」
濡れに濡れたショートカットの髪の女の子が、同じくびしゃびしゃになった体操着姿で室内に転がり込んできた。校長は後ろから扉に激突されて、なおかつ、倒れ込んだ際に床と正面衝突してそのままのびてしまった。
小守という男子生徒はしげしげとその女の子を見つめる。
「なんでそんなに濡れてんだ?」
「はい! 陸上部の練習が終わってそのまま参りましたぁ! それに最近気づいたんですけど、私は体操服で勉強したほうが燃えるんです!」
一人熱くなる女の子の熱気で室温が上がった。
「もえる? どっちの?」
小守の何気ない質問に、女の子は汗だくになりながら「え?」と声を漏らした。
「いやなんでもない」
うつつを抜かしかけた小守は、自分を反省して椅子に腰かけなおした。「それにしてもなんかあっついなここ……」と、ずれているネクタイをさらにずらしてみる。
「燃えてきた燃えてきたぁ! 今日はすっごく勉強できる気がする!」
四方八方に叫び散らす女の子は、折りたたんで壁にもたれかかっていたパイプ椅子を引っ張って来て、小守の正面を陣取った。
「今日も苦手の数学をお願いします!」
ぶんと音を立てそうなくらいの勢いで頭を振り下げる女の子から飛び散った汗が、勉強中の小守のノートや制服、さらには顔や髪にまで降りかかった。
「……三つ、言いたいことがある」
小守は、いたるところにかかった汗を拭きたい気持ちをぐっと抑えて口を開いた。
「はい! 予習・復習・総復習の三点ですね! 肝に銘じています!」
「いやそうじゃなくて」
小守はため息をついた。それから、体操服の上から水をぶっかけられたような女の子に向かって、一つずつ丁寧に享受させていく。
「まずひとつ。どうして勉強するのになんにも勉強道具を持っていないんだ?」
「あっ!」
女の子は体のあちこちを触っている。汗はいくらでも滲み出ている様子だが、どこからも勉強道具は出てこない。
「じゃあふたつ目。後ろにある物体はなんだ?」
「後ろ?」
女の子は首だけを捻った。すると床に、死体のように転がっている誰かの姿を捉えた。
「きゃああああ! 密室殺人だあああああああ!」
「違う! お前がさっき扉でぶっ飛ばしたんだ!」
彼女の金切り声に反応した小守は、思わず椅子から立ち上がる。
「あれは小早川校長だ。背中と前頭葉を打っただけで死んじゃいないと思うけど、停学処分くらいにはなるかもな」
「そ、そんな、私っ、小守先輩と会うためだけに学校に来てるのにぃ……」
おどおどと辺りに目を配る女の子だったが特に対応策は見つからず、座ったまましゅんと肩を落とした。
「落ち込んでるとこ悪いがみっつ目だ」
「なんでしょうか?」
小守はしばらく女の子の顔見つめていた。それから、幽霊が人間に取りつこうとでもしているかのように、段々と女の子に顔を近づけていった。
「な、なんですか? キスならもっとデートを重ねたあとに……」
顔を赤らめる女の子をよそに、小守は至近距離で目をつぶった。
(な、なに? 先輩がこんなに積極的だなんて初めて。緊張するっ……!)
女の子は勇気を振り絞って目を閉じた。それから五秒もしないうちに、小守は目を見開いて一言呟いた。
「お前、汗臭いからさっさと着替えてこい」
そして顔を引っ込め、小守は一仕事終えたようにして椅子に浅くもたれる。
「だいたいそんな濡れた格好じゃあノートや教科書がふやけるぞ? それに燃えているより冷えていたほうが冷静になれるし勉強も頭に入りやすいから、やっぱり着替えてこい。あまり気は進まないが勉強なら少し付き合ってやるよ」
満足げな顔をする小守に対し、女の子は涙ぐんでいる。
「あ? どうした、さっさと勉強道具をだな――」
「せ、先輩のバカぁ!」
汗だくの平手打ちを食らった小守は真横に吹っ飛び、轟音とともに掃除用具入れのロッカーに全身を強打した。「がっ!」と声を漏らして気を失った。
それから約一分後、小守は頭を押さえつつおもむろに立ち上がった。
「くっそ、いってぇな……んだよ、せっかく勉強教えてやるっつうのに」
部屋の扉は開け放たれたままになっていた。さっきまでの騒がしさが嘘のような空間だ。嵐のような少女はどこかへと消えてしまったらしい。
「ゴホッ! ご、ごもり。話は聞かせてもらったぞ」
廃棄処分されそうなほど全身ホコリまみれにした校長が意識を取り戻し、額に手を当てて立ち上がった。
「成績が悪い生徒たちに優しく丁寧に勉強を教えていくのが小守、学年一位であるお前の使命だろう! さっきのを聞く限り、即刻退学処分だな!」
いやおうなしに嘲笑する校長に小守が反論を投げかける。
「ああ、氷川夏美のことですか? あいつはいいんですよ。しつこいうえに全然成績が上がらない厄介な奴なんで。それよりも、俺に勉強を教わろうとする生徒たちが激減した原因を作ったのは校長、あなただったじゃないですか?」
うっ、と息が詰まったような声を上げる校長をさらに言及する。
「前にも何度か警告を受けて、ついに俺が停学処分になったときあったじゃないですか? 勉強を教えている最中にちょっと聞いた相談事を解決しただけで停学っておかしくないですかね? 停学のレッテル貼られてからは、俺に近づく人間なんてほとんどいなくなりましたよ」
だからと言って、校長も黙っちゃいない。
「で、でもだ! お前がけしからん恰好をしててもなおこの学校にいられるのは、生徒たちに勉強を教えるという私との約束があるからだろう!」
白坂高校は、人一倍身なりや風紀に精力を注ぐ学校だった。といってもこの小早川校長に代わってからの話だ。つまり、身だしなみを整えようとしない小守は、いくら成績が良くても校長にとってお邪魔虫でしかないのだ。
校長の真似事ように額に手を当てて考え耽る小守は、ふと思い出したように訊いた。
「あ、そういえば去年学内でやった模試の結果はどうだったんですか? 俺がまだ放課後忙しく勉強を教えていた時期だったんで、もし効果があったなら全体的な偏差値は上がっているはずですけど?」
校長は銃で胸を貫かれたと言わんばかりの形相をしてから、わかりやすく息をのんだ。
「どうなんですか? あ、もしかして、偏差値ぐっと上がっちゃいました?」
焦りで徐々に汗ばんでくる額を今一度抑えて、校長は怒鳴った。
「そんなもんは知らん! 勝手にしろ!」
わざとらしく足音を立てて校長は廊下に出ていった。遠ざかる足音を耳にした小守は、校長を出しぬけたことを密かに確信した。




