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彼女の過去 その3

 そもそも、『遊ぶ』ってどういうことなんだろう。帰宅ラッシュもなくなって、夜も遅い電車に揺られながら、綾はキャバ嬢に訊いてみた。

「楽しいって自分が思えれば、それどんなことであろうと遊んでるってことだろ。少なくともお前は今までの人生で、楽しいって心から思える出来事がなかったんだろ?」

 向かいに見える窓の景色が横に流されていく。ネオン街からすっかり離れた駅で二人は下車した。どこに行くのか教えてくれないので頻りに問いただしたが、キャバ嬢は無言だった。

「あのなぁ、キャバ嬢キャバ嬢って呼ぶのやめてくれねぇか? 恥ずかしいんだよ。あたしにはな、九条マリアっつうちゃんとした名前があるんだからな」

 九条はそう言って駅からどんどんと離れていった。綾は、その本名は似合わないなぁと思いながら付いていった。十分ほど歩いていくと、何十階もある大きなマンションが見えてきた。綾は建物を見上げながら、もしやと思って九条に問いかけた。

「ここ、ご自宅ですか?」

「ああそうだよ。賃貸だけどな」

 オートロック式で、パスワードを入力しないと入れない頑丈な自動ドアで隔たれていた。

「あ、あの、私はホテルに……」

「中学生が、それも一人で、どんなホテルに泊まろうとしても補導されるのが落ちだぞ。家出するならウチを使え。気に入らなければさっさと帰れ」

 ピー、と音がして自動ドアが開いた。九条はさっさとその間を潜り抜けてエレベーターの前で階数ボタンを押していた。

 ここで引き返したら、補導されてしまう――

 そんな恐怖にかられた綾は、閉じかかった自動ドアに足を挟み込み、こじ開けるようにしてオートロックのマンションに侵入した。


 九条の部屋は一人暮らしにしては広かったが、所狭しとゴミが置かれていて、その機能を十分に発揮できていない。綾は幼いころに見た、片づけられない女特集のテレビ番組を思い出していた。キッチン周辺にはゴミ袋が散乱、シンクの中には面倒くさくて洗っていない食器類、テーブルの上にはビールの空き缶がいくつも転がっていた気がする。九条の部屋はそこまで酷いありさまじゃあなかったが、見る限り、リビングのテーブルにはビールの空き缶が所狭しと乗せられていた。

「あー、かったるい。いくら稼ぎよくてもまともな客いねぇ」

 だるそうに言った九条がショルダーバックを下ろし、いきなり着衣を脱ぎ始めた。

「ちょ、ちょっと脱がないでくださいよ!」

「あ? お前男か?」

 そう言ってどんどん脱いでいく。そして下着姿になった九条はパジャマに着替えるかと思いきや、「風呂」と呟いて廊下に消えていった。

「あーおい、お前さ、テーブルの上にあるビールとか片付けとけよ? 泊めてやってんだから文句はなしだぞ。あ、そうだ。ついでに掃除機使ってリビング掃除しとけよ!」

 廊下の向こうからいろんな声が聞こえてきた。断る術を持たなかった綾は、テーブルの上にあるビールの空き缶を掴み取った。うわ、こぼしたりしているみたいでベトベトする。取りあえず、一つの袋にでもまとめようか。ゴミ袋の置き場所を訊こうと思い、リビングから出て洗面所の扉をスライドさせた瞬間だった。

「あーおい、食器も洗い忘れてたから洗っとけよ!」

 大声で追加注文をされてしまい、綾は肩を落としていた。


 食器類をすべて洗い終わり、ビールの空き缶を潰して透明なポリ袋に入れて玄関に置いておいた。掃除機は音が大きいからやめといた方がいいんじゃないかと後回しにしてたけど、最近の掃除機は進化しているらしい。かなり音が小さい。エアコンをかけたほうがうるさいかもしれない。綾は、リビングを掃除しながら、ふと、ラックの上に置かれていた電話機に目を奪われた。

 留守電ボタンが押されていて、赤く点滅していた。家政婦でもないのに重労働を強いられてへとへとだった綾は、小さな悪戯を思いついた。

(メッセージ消しといてやる!)

 こっちだってお風呂入りたいのに一人だけいい気持ちになるなんてと、綾は悔しがった。家出したからこんなことになったのだが、そんなことは棚に上げて、九条に少し仕返ししてやろうと思った。

 リビングの扉を開いて、お風呂場の音に耳を傾けた。なにやら歌っているらしく、声が聞こえてきた。その歌は結構有名な曲だったので、綾も歌詞は知っていた。まだ一番のサビにも達していないから出てこないだろう。急いでリビングの扉を閉め、綾は電話機の前に戻った。

 点滅する赤いボタンを押すと、音声が流れた。

『メッセージは、一件、です』

 ピー、と音がした。

 よし、と思ってから、『時刻は、午後、十時十二分、です』ととぎれとぎれの電子音が流れ、最後に記録されていたメッセージが聞こえてきた。

『マリア? こんな遅くまでお疲れ様、お母さんです。あのね、今更だけどね、ちょっと言いたくなったの。大学まで辞めて働いてくれて、本当にありがとう。あなたすぐに怒ったりしちゃうから、私怖くて言い出せなくて。でもわかってるわよ。あなた、本当はとっても優しい女の子だもんね。可哀想な人がいると放っておけない性格、お母さん、ちゃんとわかってますから。あ、それと、仕送りありがとうね。でもこんなにお金送ってくれなくてもいいのよ? なんの仕事してるのか知らないけど、ちゃんと生活しているなら私はそれでいいです。少しだけ欲を言うとね、そろそろ彼氏の一人くらいは作りなさい。二十代だから大丈夫って油断してると、あとで後悔するわよ? えっとじゃあ、気が向いたら連絡ください。待ってます』

 そこで留守電が切れた。すると音声で、留守電を消すかどうか訊いてきた。

 メッセージを聞きながら、綾は反省していた。口が悪くてけばけばしい女性だったけど、ちゃんと親のことを思って働いてたんだ。キャバ嬢ってことまで隠して働いて、親にお金を送る余裕まで持っている。私とは違う。あの人は大人なんだ。決して道に迷ったりしない大人なんだ。

「あっちぃな~。お、なんかすっげぇきれいになってんじゃねぇか!」

 綾はとっさにボタンを押した。あ、間違えて消去ボタン押しちゃった!

「んでお前、なにやってんだ?」

 九条のすっぴんは案外きれいだった。キャバクラで働くために、わざと化粧してるのかもしれない。少し幼くは見えるけど、こっちのほうがすぐに彼氏ができそうだ。

 バスタオルを腹巻のようにして寄ってきた九条が、綾の後ろを覗き込んだ。

「ははん。留守電いじってたのか。でもいつものことだ。消そうとしたってなにも入ってねぇよ」

 九条は手をのばして留守電を切った。それから、ソファに横たわって言った。

「掃除はもういい。お前も風呂入ってからさっさと寝ろ。なにか食いたきゃ勝手に冷蔵庫漁ればいい。あたしはしばらくしたら隣の部屋で寝るからな」

 時刻はもう夜の十一時を過ぎている。

 綾はちらっと後ろを振り返り、気づかれぬように電話機を見つめていた。

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