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彼女の過去 その2

 無作為に電車を乗り継いでいき、綾がたどり着いたのは、商店街のようにずらりと店が立ち並ぶネオン街だった。中学生がきていい場所じゃないと知っていたが、自分らしくない場所が一番見つかりづらいだろうと思い、こんなところに来てしまった。

 赤、青、黄、緑、赤、黄、赤、青――

 一つ一つの看板の色を見ていくだけでもなんだか楽しい。道をゆく人は大抵大人で、しかも中年層がほとんどだ。中学生の綾には目もくれず、よろよろになるまで飲んで、酔っ払いながら道を歩いている。間違っても肌が触れたくなかったので、綾は左右にちょこまかとよけながら、街を進んでいった。

 明るかったある店の入り口をバックにして立ち止り、綾は腕時計に目をやった。時間はもう九時を過ぎている。ちょうど英語塾が終了した時刻だ。もしかしたら今、塾からの連絡を受けて、お母さんが慌ててお父さんに電話してるのかもな――いや、そんなことないか。英語塾が、たった一回休んだ生徒の心配なんて、するはずないもんね。かなり大規模な英語塾だし、一人一人に構っている暇なんて、きっとないんだろう。

 綾はこのネオン街を見渡して考えていた。とにかく今日は、どこかに泊まらなければならない。十万円もあれば一ヶ月くらいは過ごせるんじゃないかな。家族でグアム旅行をしたときは、一泊で何十万円もした気がするけど、ここはグアムじゃなくて日本だ。どの建物もグアムのスイートとは違って狭そうだし汚なそうだから、一泊千円くらいで済むだろう。綾は今一度、財布の中身を確認しようと鞄のチャックを開けた。

「いたっ!」

 そのとき、後ろから誰かに衝突されて、綾は地面に倒れ込んだ。地面に落ちた鞄から中身が散乱して、道行く人たちに何度も踏まれた。

「あっ、ちょっと!」

 綾を助けようとする人はいなかった。真っ先に財布を拾った綾は、後ろを振り向いてみた。

「うぃ~、ごめんねおじょーちゃーん! んんっ? おじょうちゃん? こんなところに小さなおじょうちゃん? あれ、もしかして僕に惚れちゃった? そのお金って、僕とホテルに泊まるためにっ……あるんでしょ!」

 店内から出てきたお客さんらしき太った中年男性が、綾を舐めるようにして見ていた。恰好からしてサラリーマンらしいが、お腹がぽっこりと出ていて、胸元のシャツが汗を吸い取って少し濡れている。それに顔が真っ赤でなんだか危なそうだ。彼女は慌てて、財布をスカートのポケットに滑り込ませた。

「おろろ~? お財布が消えちゃったぁ~。えへへ、そこにあるのはわかってるよーん」

 ふらつきながら、中年男性は綾のスカートを指さした。そして、ゆっくりと綾に近づいていく。怖くなった綾はとっさに後ずさったが、落ちていた自分の鞄に踵をつっかえて、尻もちをついた。

「さあああ、さあああ!」

「や、やめてっ……!」

 恐怖で足がすくみ、思うように動かない。目をつぶって最悪の事態を覚悟したその瞬間、誰かが助け船を出してくれた。

「おらぁ! なにやってんだクソ部長!」

 店内から出てきた誰かが、その中年男性のわき腹に蹴りを入れて吹き飛ばした。

「てめぇ、こんな若いもんに手ぇ出したら即刻、この店出入り禁止にすんぞ!」

 そう吐き捨てて店内から出てきたのは、けばけばしい女性だった。金髪の痛んだ髪に、厚化粧で別人に変貌したような顔。紫のアイラインを使って目を大きく見せている。キャミソールのような、男性を翻弄する薄いピンクの服を着用していた。すらっとしたボディラインで、まだ歳も十代か二十代の境くらいだろうか。化粧のわりには、若く見える女性だった。

「おい、わかってんのか、のんだくれクソ部長!?」

「あははは、マリア様! 仰せのままにっ!」

 中年男性はネクタイを掴まれて少し息苦しそうだった。

「嬉しそうな顔すんじゃねぇよ!」

 男性はもう一度わき腹を蹴られて、ふらふらと逃げるように立ち去った。

「ったく、てめぇもてめぇだ!」

「えっ?」

「なにが楽しくてこんな大人の街に来やがったんだ? さっさと帰れ!」

 いきなり怒りの矛先を向けられて、綾は目を丸くしていた。

「店の名前が読めねぇのか?」

 綾は鞄の中身を片づけるのも忘れて店名を見上げた。筆記体のネオンサインで、『Butterfly』と書かれていた。

「蝶々って意味だ。つまり夜の蝶。ここはキャバクラだ。こんなところに来るんじゃねぇよクソガキが! 駅はあっちだ。さっさと帰んな!」

 キャバ嬢はそう畳みかけて、綾を追い返そうとした。

「あの、ちょっと聞きたいんですけど」

「なんだ?」

「ここら辺にホテルはありませんか?」

 店内に戻ろうとしたキャバ嬢が、ふと足をとめて振り返った。

「今、なんつった?」

「泊まるところを探してるんです。ここらへんお詳しいですよね? 教えてくれませんか?」

 すがりつくなら今しかない。そう思った綾は、失敗を覚悟で質問した。

「それを聞いて、てめぇどうする気だ?」

「へ? あ、一泊します」

「本当に一泊だけなのか?」

「え、ま、まぁ」

「こんな夜遅くにネオン街に来てホテルを探してるなんて、家出としか思えねぇよな?」

 キャバ嬢が綾を睨みつけた。

「いや別に、そんなんじゃないです」

「ほう」

 歩道に散らばった鞄の中身から、キャバ嬢はある一枚の定期入れを拾い上げた。

「白河綾か。年齢さえなんとかなればここで働けたかもしれねぇな。いいツラしてるよ、お前」

 褒められても特に嬉しくなかった。それより、今欲しいのは宿泊先の情報だ。

「どこでもいいんです! 千円くらいで泊まれるんですよね? 教えて下さい!」

「お前、世の中なめてんのか? 千円でホテルに泊まれるわけねぇだろ」

「じゃあ、五千円くらいですか?」

「それくらいのところはあるけどな、ここら辺一帯なら、一万は下らねぇはずだ」

「え、うそっ!」

 瞬時に計算した。じゃあ持ち金十万円では、十日間しか泊まれないじゃない!

「いいから家に帰れ。親に心配かけんな」

 店の階段を下りていくキャバ嬢の背中に、綾が叫んだ。

「あんな家に、帰りたくないです!」

 口をついて出たのは綾の本心だった。

「もううんざりなの! 習い事習い事ばかりで私を締め付けて、なにが将来のためよ! 押しつぶされそうな私の気も知らないで、なにがしつけよ!」

 鬱屈した綾の気持ちが爆発した。

「私気付いたの。いくらお金があったって、それを使える時間がなければ楽しくもなんともない。ずっと勉強してるだけで遊ぶ時間がないなんて、もう、こりごりなの……」

 綾の瞳には涙が溜まり、頬を伝ってその雫がこぼれ落ちた。

 それに気づいたキャバ嬢は綾をしばらく見つめてから言った。

「なんなら一度、思いっきり遊んでみるか?」

「え?」

「偉そうに勉強と遊びを秤にかけてるみたいだけどな、お前は思いっきり遊んだことがあるのか? 話を聞く限り、部屋にこ閉じ籠って勉強しかしてないようだぞ?」

 その指摘は正しかった。外には頻繁に出るが、それは習い事の行き帰りってだけのことだ。友達と遊んだ経験など、綾にとっては乏しいもので。

「でも、家には……」

 はぁ、とため息をついたキャバ嬢は、歩道まで出てしゃがみ込み、いまだ散らばっていたノートや教科書を拾い上げて、綾の鞄に仕舞った。

「白河綾。一日だけなら付き合ってやるよ」

 キャバ嬢は、綾に鞄を手渡して続けた。「あたしと思いっきり、遊んでみないか?」

 唐突な展開に、綾は気が動転していた。

「えっ、あ、あの」

「あたしと思いっきり遊んでみて、それでもまだ満足しないなら好きなとこ行っちまえ。もちろん普通の遊びだぞ。水商売とかは抜きでな」

 返答に困って、綾は委縮していた。

「あたし、今日はこれであがりなんだ。これから着替えてくるから、もしあたしと遊んでみたかったらここで待ってろ。クソ喰らえと思ったなら、ホテルでもなんでも自分で探して消えちまいな」

 そこまで一気に言い終えて、キャバ嬢は店内に戻って行った。

 カバンの取っ手を強く握りしめた綾は、地面を睨みつけるようにしながら、その場から動かなかった。

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