彼女の過去 その1
有り余るほどの財産、人並み以上の美貌、過不足ない謙虚さ。
白河綾のまわりには、常に幸せの種が詰まっていた。
父がとある企業の社長を務めていて、その業績に不安を呈する者はいない。テレビコマーシャルや新聞の広告、インターネット事業をも確立し、やる気になればこの世の中を左右できるほどの権力と財産を併せ持っていた。つまり綾は、どんなに躓いても倒れないような、絶対的な将来を約束された恵まれしお嬢様なのだ。
そんな父の口癖はこうだった。
「なにか一つでいい、自分の好きなことを見つけなさい。将来わたしの会社に入れとは言わないさ。しかし、折角の長き人生、怠惰な生活を送ってはいけないぞ? 色々なことを勉強なさい。それがどんなに嫌いなことでも構わない。必ず綾のためになる。必ずその中の一つに綾が好きなことがある。下手な鉄砲数打ちゃ当たるというからな。ん? この意味がわからないなら自分で調べてみなさい。それがいつか、綾の将来に繋がっていくから」
辞書すら引くことすらできない幼い頃からずっと、こんな調子で言い聞かせられた。その父の近くで、母がくすくすと笑っていたのを覚えている。
「綾をどんな娘に育てる気?」
平和な家庭が、ずっと綾の傍にあった。それは高校生になった今でも消えたとは思っていない。でもその幸せは、裏を返してみれば、習い事に縛られる生活を送れと言われているようなものだったのだ。
綾がまだ中学に入りたてだったときの話だ。
普通に家のカギを開け、普通に靴を脱いで玄関に上がった。きちんと靴をそろえて、廊下を歩き始めると、いきなりリビングの扉が開いた。
「綾! 今日は英会話の塾があるはずでしょう! どうして帰って来たの!」
学校から帰ってくるなり母に甲高い声で面責されて、綾は小さな声で答えた。
「予定がずれたって言ったでしょ?」
「いつ? いつの話よ?」
「先週よ。英会話の塾は金曜日から土曜日に移ったって、ちゃんと話したよね?」
母は娘に疑いの目を向けた。
「覚えてないわ。本当に言ったの?」
「言ったじゃない。お母さん、なんか最近物覚えがわるいよね?」
親を心配して言ったつもりだったのに、母はそう捉えなかった。
「な、なんてこと言うの! 親にケチつけるもんじゃありません!」
バシッ!
綾は平手打ちを食らった。顔が強制的に弾かれ、頬が赤くはれ上がった。
「次にまた口ごたえしたら、あいた今日の時間にテニススクールでも入れてあげるからね」
「そ、そんなこ……」
口ごたえするとまずいと思い、綾はそこで言葉を区切った。もう何度も苦い経験をしている。
もともと、週に二回だけ習い事があって、休日以外はのんびりできたものなのだ。なのにいつの間にか母は習い事を増やし始め、今の綾は、スケジュール表に記入できないほどの忙しさになっていた。休みなんて、今日くらいしかなかったのに。母はそれをも奪おうとしていた。
父はほとんど家に帰って来ない。家事と育児は母にまかせっきりだ。その責任感が、私を厳しくしつけようとするのかもしれない。正確なところは、わからないけど。
もうこのままだと変になってしまう。きれいな衣服やおいしい食事があって、快適な生活を送れるはずなのに、なによ、全然楽しくないじゃない。習い事の中に好きなものも見いだせないし、いくら成績を上げても生きている心地なんてしない。そう感じた綾は、階段を駆け上がって二階の部屋に飛び込んだ。机の引き出しから、昔、何度か隙を見て親から掠め取った十万円を取り出し、家出をする決意をした。
土曜日だ。午前授業でクラスが解散すると、綾はいつものように多忙を装って教室を飛び出した。教室の中から友達が「英語塾、頑張って来いよ~!」と声を飛ばしてきたので、大きな声で返事をしようと思った。でもごめんね、今日から私は家を出るの。悪魔のような母が住んでいるあの家から、私自身の力で抜け出すの。あいちゃん、今日でもう会えなくなるかもしれないから、こう言っておくね。
「さようなら!」
その声があいちゃんに届いたかどうかは不明だ。でも綾は、一心不乱に学校内を走り抜け、誰も知らない土地へと、足を延ばした。




