小守悠介の思惑。 その2
ウェーブをかけた髪の毛が特徴的なピアノの先生は、かなり親身になって、白河綾について二人に話した。それもそのはず。綾が先週のピアノ講習から急に来なくなって、先生自身も心配していたのだという。何度か綾の自宅には電話を入れたらしいが、在宅していないのか、まったく反応がないんだと、訪ねてきた二人に伝えた。
「僕たち、白河綾さんと友達なんです。学校で直接、白河さんに連絡しておくのでご安心下さい。来週までにはまたここに伺えると思います」
小守は瞬間に気崩していたネクタイを正し、礼儀正しい男子生徒になり下がってそう言った。ピアノの先生は「じゃあ、なにかわかったらここに連絡してもらえます?」と申し出て、携帯の番号を彼に教えた。「コンクールも近いから、心配なんですよ」
「そんなものがあるんですか?」
夏美は、綾がコンクールに出るほどの腕前を持っていることに心底驚いていた。
「今年ね、私が教えているのは綾ちゃんだけなのよ。だから綾ちゃんだけが出れるってわけ。それで生徒が一人しかいなくて、月曜日しか開校してなかったの。この教室もすっかり廃れちゃってね。本当は、今日も綾ちゃんをみる予定だったんだけど、さっきちょうど、ピアノを習いたいって子が来てね、久しぶりだったから体験入学させてあげたの。途中で綾ちゃんが来るかななんて思ったんだけど、やっぱり来なかったわね」
ピアノの先生は、ここから少し離れた場所に住んでいるらしい。このピアノ教室は規模の小さい別荘みたいな感覚なんだという。週に一度だけ月曜日の夕方にここにきて、綾を待っていた。今日来なかったら、直接、家を訪ねてみようかと考えていたらしい。夏美は、ふーんと思ってほとんど聞き流していたのだが。
小守が、先生との別れ際に質問した。
「ちなみにですけど、最近、クマのぬいぐるみを見た覚えがありますか?」
「いいえ、どうしてそんなものを?」
「そうですか。いえ、ちょっとしたことなんで、お気になさらないで下さい」
小守はそう言ってから、ありがとうございますとお礼を口にした。そのあと二人は先生と別れを告げて、今度はクマのぬいぐるみの店へと足を運ぶことになった。
「せんぱ~い、疲れましたぁ」
夏美の歩き方はは重々しく、足になにかトレーニング用の器具をつけているようなだるさが垣間見れる。
「おじいさんの家でなんか食わせてもらえるかもしれないぞ?」
小守は少し先を歩いている。
「えっとですね、あのおじいさん、最初だけは夕食に誘ってくれたんですけど、きっぱり断っちゃったからか警戒されて、二回目のお誘いはありませんでしたよ。だから実は、家に上がるのにすごく苦労したんですよぉ」
おじいさんへの期待はいささか薄い。だから夏美は余計に疲労感が増えてしまった。
「じゃあ帰っていいぞ」
「嫌です!」
そこだけは彼女の譲れない正義らしい。小守は少しばかり頭を抱えていた。
余計な寄り道をせずにまっすぐとやってきたので、かなりの速さで例のお店に到達した。こんなに早く付ける位置にあったんだと、夏美はげんなりとした。
「ん?」
小守は門を開けずに耳を澄ましている。
「入らないんですか?」
「どうやらこの家は、防音の設備がないらしいな」
夏美も黙り込んで周囲の音に集中した。すると、お店の中から小さな声が漏れていることに気づいた。なにやら言い争うようなその小さな声を、なんとか捉える事が出来た。
――おじいちゃん、どうしてわかってくれないんだよ。ここにいたら危ないってば。
――それが孝行のつもりか。わしはここを動かんぞ。ここで生きて、ここで死ぬんだ。
――ちょっと地震が起きただけでも崩れそうな家に、いつまでも住まわせておくわけにはいかないんだよ。こっちの身にもなってくれよ。
――知らん。何度も何度も邪魔するように来やがって。いい加減出ていけ! フリーターの孫なんぞ持つんじゃなかったわい!
――おじいちゃん!
足音をたてないようにして近づいていった小守が、ガラス戸を引いた。
「お取り込み中、失礼します」
彼は両足をそろえて礼をした。その後ろから、心配そうに店内を見渡す夏美が顔を出している。店内には、立って話し込んでいる孫の高梨と、その祖父である丸坊主のおじいさんがいた。おじいさんは、一段高くなった玄関先に座りこんであぐらをかいていた。
「あ、昨日の……」と高梨が夏美を見て声を漏らした。「なにしにいらしたんですか?」
「少し、家庭の事情に首を突っ込もうかと思いまして」
うろたえている後輩に耐えかねた小守が、単刀直入にそう伝えて、おじいさんと高梨に目配せした。
「君もこの前の……でも、どうしてそんなことを?」
「どうやら最近、ここのおじいさんが困ってるという噂を小耳に挟みまして、なんとか助けてあげられないものかと、思ったまでです」
小守は適当な理由をつけて高梨を見据えた。
「困ってる? それはもしかして、僕が困らせてるってことかい?」
「その質問は俺ではなく、おじいさんにお渡しします」
小守の目線を感じたおじいさんは、ピクリとまゆを吊り上げてから、嫌な笑みを浮かべて発言した。
「最近、このウチから言い合うような大声が響いてきてうるさいっていう苦情が来てるんじゃ。頼むから、もう本当に、わしのことは放っておいてくれないか? この通りだ」
あぐらから正座に変わり、おじいさんは頭まで下げて急に低姿勢になった。それからもう一度口にした。「頼む、この通りだ」
それを見た高梨は、口論を盗み聞きしていた二人の学生を一瞥してから、不満そうな顔を作った。
「僕は好意のつもりでやってるんだけどね。でもわかった、そこまで言うなら、今日のところはもう帰るよ。でもねおじいちゃん。もう一度だけ来るから、そのときは覚悟しておいてよね」
高梨はアタッシェケースから帽子を取り出して深くかぶり、すたすたと店から退散した。これで見送るのが二回目になった夏美が、先輩の袖を引っ張って耳元で囁いた。
(あの、いいんですか? なんかこんなので?)
状況を不安視した夏美は、つま先立ちになってちょっと背の高い先輩に問いかける。
(詳細を聞きだす絶好のチャンスだぞ)
先輩の小守はそう言い切って、おじいさんの目の前に歩み出た。
「瑣末な嘘に乗ってくれて、ありがとうございました」
「いやいや、わしこそ助かったわい。君が機転の効く子でよかった。先週来てくれた子だね」
おじさんは小守の機転を受けて、有りもしない事実を語っていた。毎回の口論が近所迷惑になっている、という架空の事実を。
「高梨さんと言うお孫さんは、いつからここに来てるんですか?」
「一ヶ月くらい前からじゃな。バイトが休みの月曜と日曜に、立て続けに帰って来るわい。頻りに『一緒に住まないか?』って尋ねてくるんじゃよ。迷惑なことこの上ないわい」
おじいさんは、吐き捨てるようにそう言った。
「どこで一緒に住もうと?」
「聞いてないわい。ラジオの音でかき消してやったわ!」
かなり頭に血が上っているらしく、おじいさんはまた、正座からあぐらに戻っていた。
「じゃあちょっと、協力させてもらえませんか?」小守は前かがみになりながら頼んだ。
「それは嬉しいことじゃが、どうして?」
「わかりませんか? おじいさんがこの店からいなくなると、これからここに、クマのぬいぐるみを買いに来る人たちが可哀想じゃないですか。せっかくブームの兆しが見えたんですから、勿体ないと思いますよ」
笑顔でそう伝えると、後方いた夏美も隣までやって来て「私もそう思います!」と後ろ盾になった。するとおじいさんは、やわらかく表情を崩して言った。
「嬉しいね。じゃがこれ以上、孫の話はよしてくれ。胸くそ悪い!」
おじいさんはあぐらをかいたまま、二人の協力者を得てもなおご立腹だ。
小守が藪から棒に提案する。
「じゃあこうしましょう。俺の携帯番号をお渡しします。もしなにか高梨さんとの間に進展がありましたらご連絡いただけますか? 今日はもう帰りますので」
「……それなら、まあ」
承諾したものの一歩踏み出せないおじいさんは、ためらいがちに立ち上がり小守の携帯番号を受け取った。




