小守悠介の思惑。 その1
白河綾を尾行するとかなんとか言っていた気がするが、学校を出た時点でもうその姿などない。十分以上も間をあけていたのだからそれは当然。小守先輩は早歩きで道を進んで行く。なんだか追いつくだけで精いっぱいだった夏美は『羨望駅』を出るまでほとんど喋らないで過ごした。
「先輩、あの女の背中すら見れなかったんですけど、よかったんですか?」
夏美はようやく質問を投げかけた。いつもより長く学校に居座っていたせいか、お月さま以外真っ暗な空の中、『羨望駅』到着した。
「むしろ尾行がばれなくて好都合だろ。行き先は割れてんだから」
そうか、と夏美は安堵した。あの女は、この広大な住宅街の一角にある小さなピアノ教室に向かったんだ。あと数十分もすればその足取りを証明できる。ついでに、開校しているピアノ教室をこの目で確認できるので一石二鳥だった。
街灯が粉雪のようにちらほらと付き始めた頃、二人はそのピアノ教室のまん前に到着した。時刻は夜の八時を回っている。予想通り明かりが付いていて、レースカーテンの内側でピアノを弾いている様子がうっすらと見えた。
「ねぇ先輩? 弾いてるの見えるんですけど、音が全然聞こえませんよ?」
「防音の処置がしてあるんだろ。こんな遅くにレッスンしてるんだから当然だな」
夏美は門から上半身を乗り入れて耳を傾けていた。
「これからどうするんですか? あ、一緒に夕食食べましょうよ? この駅前にね、おいしそうなフランス料理屋さんを見つけたんですよ~!」
「ん?」
辺りを見渡しながら、小守は興味のなさそうに呟いた。
「ええっと――鮭のムニエル、春野菜のテリーヌ、んでもって、豚肉と白菜のミルフィーユなんてのもありましたよ! ああ、先輩と一緒に食べたいなぁー?」
「…………」
腹ペコの夏美は、夕食に気持ちを向けていた。
「さっきも見たんですけどね、意外にリーズナブルな値段でしたよ。それに一緒に食べたら、なにか特別な気持ちが芽生えるかも……!」
ピアノ教室の前できゃあきゃあはしゃぐ夏美に、先輩の小守がなだめるようにして言った。
「尾行はまだ、終わっちゃいないぞ?」
「え」鞄をぶんぶん振りまわす夏美が静止した。「どういうことです?」
「実際に白河さんがここから出てきて、家に帰るまでがちゃんとした尾行だ。それによって、なにを隠しているのか、俺たちになにを求めているのか、もっとはっきりわかるかもしれないからな」
「えええええええ!」
夜空に轟く夏美の声。結構遠くにいた会社帰りのサラリーマン風の男が、ちらりと二人の方に目線を注いでいた。
小守先輩は、普通、一回のピアノレッスン時間はだいたい三十分から一時間ほどだと言っていた。その間に夏美は帰ろうかどうか少し悩んだが、やはり最愛の先輩を置いて帰ることはできず、先輩と一緒にピアノ教室から少し離れた壁にもたれていた。
「なに読んでるんですか?」
暇を持て余した夏美が、先輩の手元を覗き込んだ。
「小説だ。推理小説」
小守はなんのためらいもなく、目線すら逸らさずに読書を続ける。せっかくインテリな男子学生に見えそうになる小守だが、ネクタイを好まず気崩ししているので不釣り合いとも思える絵図らだった。それでも夏美は、迷わず言った。
「先輩らしいですね」
「そうか?」
そして会話は途切れた。さっきからこんな感じで先輩の隣にいる夏美は、なんとか自分に意識を向けさせようという努力を惜しまない。
「い、いつ行きます? この依頼が終わったら、一緒に食べに行きましょうよ? ね?」
大げさな身振り手振りで先輩の視界に潜り込むようにして、夏美は必死に先輩との会話を試みる。先輩である小守は小守で、星を見る余裕すらないように、静かに街灯と月明かりを浴びながら、本の見開きにある活字を目で追っていた。
「あ、じゃあ、わかりました! 私が今度お弁当作ってきますよ! 先輩のために!」
さすがの小守も目線を移さざるを得ない。
「なんだって?」
「お弁当ですよお弁当! 先輩は一銭も出さずに経済的っ! おにぎりばかりじゃ、先輩は栄養失調で倒れてしまいます! そうしたら私は困ります! だから、先輩の栄養分は私が守ります!」
夏美は青い顔になって思い出していた。勇気を出して仲直りしたあのときの屋上で、先輩は数個のおにぎりを頬張っていただけだった。きっといつもそうなんだろう。先輩の体調がすごく心配になった。
「断っても無駄ですからね。私は本気です」
小守はなにも言わず、目線だけで訴えている。しばらく雄弁にお弁当の良さを語る夏美に付き合っていた小守だったが、ふいに一言呟いた。
「夏美って、弁当作れるのか?」
そんな根本的な疑問に夏美は狼狽する。
「つ、作れますよ! 週に十二回はお弁当作ってるんですから!」
「どんだけ忙しいんだよ」
小守はそう突っ込んでから、また読書に耽った。
「とにかくっ! 私が言いたいのは――」と夏美が言いかけた矢先、小守は「待て」と夏美の口元に自分の手をかぶせた。
「ふがっ!」
「誰か出てきたぞ」
ぽつりとそう言われた夏美は、電柱の陰に隠れた先輩のそのまた後ろに隠れてピアノ教室を凝視した。一人の女の子と、おそらくはピアノの先生だろう人が、門のところで喋っているのが見えた。数分語らっていたその二人は、お互いに手を振って別れてしまった。
「先輩、あの」
「なんだ?」
その一部始終をきちんと見ていた夏美は、自分の感じたことを打ち明けた。
「今のって、どうみてもあの女じゃなかったですよね?」
「よく見てたな。その通りだ」
出てきた女の子は、銀縁の眼鏡をかけた、小学生か中学生くらいの子供だった。夏美は自分が見た光景が間違いじゃないかと不安だったが、あっけなく先輩は同意してくれた。
「なんであの女がいるはずのピアノ教室から、あの女以外の生徒が出てくるんですか?」
「個人レッスンとは限らないだろ。二人いっぺんにやってるかもしれないし」
「それはないと思います。私さっき教室の中見てましたけど、先生と生徒、一対一のレッスンにしか見えませんでした」そう言ってまたすぐに喋り出した。「あっ、もしかして先輩、あの女がここから出てこないってわかってたんじゃないですか?」
「どうしてそう思う?」
言われた夏美は、先輩の顔をじっと見つめた。
「だって先輩、全然驚いてないですもん。なんか、思い通りになって喜んでるみたいな顔してますもん」
たまに妙な理論を組み立てる夏美に、小守はそっけなく言った。
「わるかったよ。実はな、今日俺が尾行しようと思ったのは、白河綾がピアノ教室に通ってない、ってことを証明するためだったんだ」
夏美はびっくりして一瞬、言葉が出なくなった。
「なんで来てないって、思ったんですか?」
「いや、来てないと思ったわけじゃない。来てないほうが腑に落ちると思っただけだ」
夏美は先輩の言っていることが理解できなかった。
「わかんないんですけど?」
「説明すると長くなる。俺は、あの先生と会ってくる」
小守は本を鞄に仕舞って、ピアノ教室に近づいていった。
「あっ、私も行きます!」
誰かの背中をいつまでも追いかけていそうな健気な夏美が、小守の背中に吸い寄せられるようにして付いていった。




