第09話 レイコの問い
十月。五億円の換金手続きの日。
個室に入ってきた桐谷さんは、今日は書類を見ても驚かなかった。
「お待ちしておりました、佐伯様」
「もう慣れちゃいました?」
「慣れるわけがありません」
淡々と手続きを進める彼女の手元を見ながら、俺はふと気づいた。
書類の下に、手書きのメモが一枚挟まっている。びっしりと数字が並んでいた。
「それ、なんですか」
桐谷さんの手が止まった。
「……佐伯様の、これまでのご当選の記録です」
「え」
「私的なメモです。業務とは関係ありません」
彼女はメモを取り出し、俺の前に置いた。
ナンバーズ3。ナンバーズ4。ミニロト三回。ロト6の第一回。それ以降のキャリーオーバー回、五回。
その横に、小さな字で確率が書いてあった。
最後の行には、こうあった。
偶然である確率:ほぼゼロ
◇
「佐伯様。今日のお手続きが終わったら、少しお時間をいただけませんか」
「……業務とは関係なく?」
「業務とは関係なく」
◇
銀座の裏通りにある、小さなバー。
制服を脱いだ桐谷さんは、白いブラウスに細身のスカートで、眼鏡を外していた。それだけで、別人みたいに見えた。
「単刀直入に聞きます」
グラスを置いて、桐谷さんが言った。
「佐伯さん、未来が見えるんですか」
店内のジャズが、やけに大きく聞こえた。
「……もし、そうだって言ったら?」
「信じます」
即答だった。
「私は数字しか信じません。そして、数字はあなたが普通じゃないと言っています。理屈が分からなくても、結果がそう言っているなら、それが事実です」
真っ直ぐな目だった。
俺は少し考えて、半分だけ本当のことを言った。
「未来が見えるわけじゃない。ただ、俺は数字を覚えるのが得意なんです。誰も知らないはずの数字を、なぜか覚えてる」
「……なぜか、ですか」
「なぜか、です」
桐谷さんは、しばらく俺の顔を見つめていた。それから、ふっと力を抜いて笑った。
初めて見る、彼女の笑顔だった。
「ずるい答えですね。でも、嘘はついていない顔です」
◇
グラスが三杯目になったころ、桐谷さんがぽつりと言った。
「私、銀行を辞めようと思っているんです」
「え?」
「窓口で、毎日同じ書類に判を押して。上司の顔色を見て、ノルマの投資信託を売って。数字が好きでこの仕事を選んだのに、本当に面白い数字には、一度も触らせてもらえない」
それは、一周目の俺が二十六年かけて飲み込んだ不満と、まったく同じ形をしていた。
「桐谷さん」
「レイコでいいです。もう、行員じゃないので」
「……レイコさん。いつか、俺がお金を動かす会社を作ったら、来てくれませんか」
レイコさんは、目を丸くした。
「本気ですか」
「本気です。あなたみたいに数字が読める人が、俺には必要になる」
「……考えておきます」
そう言って、レイコさんは最後の一杯を飲み干した。
店を出ると、夜風が冷たかった。
駅に向かおうとした俺の袖を、レイコさんの指がそっとつかんだ。
「佐伯さん。もう一軒だけ、付き合ってくれませんか」
眼鏡のない目が、少し潤んでいた。
――来るもの、拒まず。
頭の片隅で、ミサキの顔がちらついた。でも、その袖を振りほどく理由を、二周目の俺は持っていなかった。
◇
翌朝、ホテルの窓の外で、鳥が鳴いていた。
隣で目を覚ましたレイコさんは、シーツを胸元まで引き上げて、天井を見たまま言った。
「佐伯さん。彼女、いますよね」
「……います」
「知っています。手続きのとき、携帯の待ち受けが見えましたから」
責める声ではなかった。どちらかといえば、自分自身に確認しているような声だった。
「私、二番目でも三番目でも構いません。数字の好きな女は、順番にこだわらないんです」
「そういうものですか」
「そういうものです。それに――」
レイコさんは、ようやく俺の方を見た。
「一番になれるかどうかは、これからの私の仕事ぶり次第ですから」
眼鏡のない目が、いたずらっぽく笑っていた。
◇
その記事を見つけたのは、二週間後、コンビニの雑誌棚だった。
『ロト6に“神の手”? 同一人物が1等を連続当選か――謎の億万長者を追う』
週刊誌の表紙の端に、そんな見出しが踊っていた。
手に取って、立ち読みする。
――ロト6の発売以来、キャリーオーバー発生回に限って、同じ地域の売り場から1等が複数口出るケースが相次いでいる。関係者によれば、当選者は同一人物の可能性が高い。二十代の若い男性で――
雑誌を棚に戻す。手のひらに、じっとりと汗がにじんでいた。
名前は出ていない。顔写真もない。でも、確実に近づいてきている。
三日後。知らない番号から、携帯に電話がかかってきた。
『佐伯ショウゴさんですね? 私、週刊誌の記者で沢口と申します』
低くて、粘りつくような声だった。
『ロト6の件で、少しお話を伺えないかと思いまして』
「……人違いじゃないですか」
『いえいえ。あなたのマンション、二十八階ですよね。黒いドイツ車。いい趣味してらっしゃる』
背筋が冷たくなった。
「切ります」
『どうぞどうぞ。また伺いますので』
通話が切れた。携帯を握る手が、小さく震えていた。一億円が当たったときも、五億円が当たったときも震えなかった手が。
悪いことは重なる。
翌週、宝くじの受託銀行の本店に呼ばれた。通された会議室には、スーツ姿の年配の男が三人座っていた。
「単刀直入に伺います。佐伯さん、何か、抽選に関する情報をお持ちではありませんか。例えば、抽選機の関係者とお知り合いだとか」
――不正を疑われている。
当然だ。立場が逆なら、俺だって疑う。
「ありません。俺は普通に売り場で買って、普通に当てただけです」
「普通に、五回も繰り越し回の1等を複数口で?」
「運がいいんです」
結局、何も証拠は出なかった。出るはずがない。俺は本当に、何もしていないのだから。
でも、帰り際の一言が耳に残った。
「今後のご購入については、こちらでも注視させていただきます」
◇
その夜。ミサキから電話があった。
『ショウゴくん。会社で、週刊誌の記事が話題になってて』
心臓が跳ねた。
『ロト6の謎の当選者って……もしかして、ショウゴくん?』
「……」
うまい言葉が出てこなかった。沈黙が、何よりの答えになってしまった。
でも、受話器の向こうから聞こえてきたのは、怒った声でも、遠ざかる声でもなかった。
『そっか。ごめん、責めてるんじゃないの。ただ、心配で』
「ミサキ……」
『記者の人とか、来てない? 危ないことになってない? ショウゴくんが言いたくないことは、言わなくていいよ。話せるようになったら、話してくれたらいい。私、待てるから』
胸の奥が、ぎゅっと痛くなった。
「……ありがとう。必ず話す」
『うん。今日は、ちゃんと鍵かけて寝てね』
電話を切ったあと、二十八階の窓辺に立った。
東京の夜景は、相変わらず綺麗だった。でも今夜は、そのどこかから、誰かがこっちを見上げているような気がした。
出る杭は打たれる。
――俺は、出すぎたんだ。
ミサキを、レイコさんを、守れるだけの備えをしなければならない。
現在資産:2,318,425,100円
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