第10話 静かに勝つ
「まず、弁護士です」
レイコさんは、ホテルのラウンジでノートを広げるなり言った。
銀行に辞表を出したばかりの彼女は、紺のパンツスーツ姿だった。制服のときより、ずっと生き生きして見える。
「宝くじの当選金は非課税です。どれだけ当てても、税金はかかりません。ここは安心してください」
「それは知ってる」
「問題は、その後です。佐伯さんが誰かにお金をあげれば贈与税。不動産を買えば固定資産税。運用して増えれば所得税。そして、記者や不正の疑い。全部、一人で抱えるのは無理です」
レイコさんは、ペンで三つの丸を描いた。
「一つ。信頼できる弁護士と税理士をつける。二つ。資産を管理する会社を作り、個人と切り分ける。三つ。――買い方を、変える」
◇
弁護士は、レイコさんの大学時代の先輩だという女性だった。
沢口記者には、その日のうちに内容証明が届いた。私生活への付きまとい、住所の公表、すべて法的措置の対象になる、と。
「記者って、こういうの効くんですか」
「効く記者と、効かない記者がいます」
弁護士はにっこり笑った。
「効かない記者には、もっと効くものを送ります」
――頼もしすぎる。
◇
資産管理会社も作った。
合同会社サエキ・アセット。社員は、代表の俺と、レイコさんの二人だけ。
「社名、もう少しひねりませんか」
「分かりやすいのが一番だよ」
「……佐伯さんのそういうところ、嫌いじゃないです」
レイコさんは、ほんの少しだけ頬を緩めた。
彼女の給料を決めるとき、俺は銀行時代の三倍の額を書いた。レイコさんはその紙を見て、眉をひそめた。
「多すぎます」
「少ないくらいだよ。レイコさんがいなかったら、俺は今ごろ記者に追い回されて、銀行からは出入り禁止になってる」
「……では、この金額に見合う仕事をします」
そう言ってレイコさんは、その日のうちに、俺の当選記録と資産の一覧表を作り上げてしまった。三年分の取引が一枚の紙にきれいに整理されているのを見て、俺は本気で感心した。
◇
そして三つ目。買い方を変える。
「同じ売り場で複数口買うから、目立つんです」
レイコさんが、日本地図を広げた。
「次のキャリーオーバー回。一口ずつ、違う売り場で買ってください。できれば、違う県で」
「……四口なら、四か所?」
「四か所です。1等が全国の四つの売り場からバラバラに出れば、ただの偶然に見えます」
俺は思わず笑った。
一周目の俺は、効率ばかり考えていた。一か所でまとめて済ませるのが賢いと思っていた。でも、本当に賢いのは、目立たずに勝つことだ。
十一月の終わり。俺は新幹線に乗った。
名古屋で一口。大阪で一口。京都で一口。帰りに静岡で一口。
まるで小旅行だった。各地で美味いものを食べ、ついでに一枚ずつ、運命の紙切れを買う。
抽選の夜。テレビのアナウンサーは、淡々と言った。
『1等、四口。当選金額、一億円』
誰も騒がなかった。売り場の名前も、バラバラだった。
「……静かだな」
「静かが一番です」
リビングのソファで、レイコさんが隣で微笑んだ。
◇
約束どおり、ミサキには話した。
週末、二十八階のリビング。俺はノートを開いて、ナンバーズからロト6まで、当たった記録を全部見せた。
「何度も、当たったんだ。……正直に言うと、普通の運じゃない。でも、誰かを騙したり、悪いことをしたりして手に入れた金じゃない。それだけは信じてほしい」
タイムリープのことは、言えなかった。言っても信じてもらえるとは思えなかったし、何より、ミサキを怖がらせたくなかった。
ミサキはノートを一ページずつめくって、それから静かに閉じた。
「すごいね。本当に、すごい」
「……怒らないの?」
「怒る理由がないもん。話してくれて、ありがとう」
ミサキは、ノートを抱えたまま俺にもたれかかった。
「ショウゴくんがどれだけお金持ちになっても、私にとっては、図書館で告白してくれたショウゴくんのままだよ」
その笑顔は、花火の夜と同じだった。
「でも、一つだけ約束して」
「何?」
「危ないことになりそうなときは、一人で抱え込まないこと。私、編集者だから、困ってる作家さんの話を聞くのは得意なんだよ」
「……分かった。約束する」
ミサキは満足そうにうなずいて、俺の腕の中で目を閉じた。
◇
十二月。年末のキャリーオーバー回。
俺の記憶の中で、2001年最大の「器」だった。
1等該当なしが続き、繰り越しは何億にも膨らんでいる。ここで六口当てれば、六億円。今年の締めくくりにふさわしい一撃だ。
「六か所、回りましょう」
レイコさんが地図に印をつける。仙台、宇都宮、高崎、甲府、長野、新潟。
「年末の小旅行ですね」
「温泉にも寄ろうか」
「……仕事です」
そう言いながら、レイコさんは温泉宿のパンフレットをしっかりカバンに入れていた。
二泊三日の旅だった。
雪の降る長野の売り場で、最後の一口を買った。マークシートを塗る手つきは、もうすっかり慣れたものだった。
六つの数字。何百回も頭の中で繰り返した並び。
「これで、今年の仕事納めだな」
温泉宿の露天風呂から見た雪景色は、一周目の人生で見たどの景色より綺麗だった。
◇
抽選の夜。
二十八階のリビング。レイコさんは隣でワインを開けていた。
「先にお祝いしておきますか」
「気が早いな」
「佐伯さんに限っては、早すぎることはないと思います」
テレビの画面が切り替わる。
『ロト6、今週の抽選結果です』
一つ目の数字が表示された。
――え?
グラスを持つ手が止まった。
違う。俺の記憶の、一つ目の数字じゃない。
二つ目。違う。
三つ目。これは合っている。
四つ目。違う。五つ目。違う。
六つ目。――合っている。
「……二つ」
六つのうち、合ったのは二つだけ。最下位の5等にすら届かない。
『1等、当選口数、二口。当選金額は――』
アナウンサーの声が、遠くに聞こえた。
1等が、出ている。俺の記憶では、この回は「該当なし」だったはずなのに。
「佐伯さん?」
レイコさんの声で、我に返った。
彼女は俺の顔を見て、ワイングラスをテーブルに置いた。
「……外れたんですね」
「ああ」
声が、かすれていた。
「記憶違い、ということは?」
「ない」
即答した。それだけは、断言できた。この回の数字は、年末の大きな繰り越しとして特に印象に残っている。間違えるはずがない。
じゃあ、なぜ。
「……世界が、違う?」
口に出した瞬間、ぞっとした。
タイムリープものの小説で、何度も読んだ展開だ。過去を変えれば、未来も変わる。主人公が知っていたはずの未来は、主人公自身の手で書き換えられていく。
その夜、俺は眠れなかった。
レイコさんが帰ったあと、リビングの床に座り込んで、ノートを広げた。次の回の数字。来年の数字。再来年の数字。頭の中には、全部入っている。
でもそれは、本当にまだ「未来」なのか。
それとも、もう二度と来ない、別の世界の記録になってしまったのか。
窓の外が白み始めても、答えは出なかった。
現在資産:2,718,423,900円
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