第11話 金を学ぶ
年が明けて、2002年一月。
サエキ・アセットの事務所――といっても、俺のマンションの一室――で、レイコさんと二人、壁一面に模造紙を貼った。
「記録しましょう。佐伯さんの記憶と、実際の結果。全部です」
毎日の新聞を切り抜いて、照合する。ナンバーズ3、ナンバーズ4、ミニロト、ロト6。
一週間後、模造紙は赤と青の印で埋まった。
青は、記憶どおり。赤は、ズレ。
「……面白いですね」
レイコさんが、ペンの先で模造紙を叩いた。
「全部がズレているわけじゃありません。ナンバーズは、まだほとんど青です。ミニロトも半分以上は合っている。赤が集中しているのは――」
「ロト6」
「はい。それも、十二月の年末回から急に」
レイコさんは、新聞の小さな記事を指さした。
『ロト6抽選会、不正防止のため立会人を増員 手順も一部見直し』
日付は、十二月の初め。週刊誌の記事が出た、少しあと。
「……俺のせいか」
「おそらく。佐伯さんが目立ったから、週刊誌が書いた。週刊誌が書いたから、抽選会の手順が変わった。立会人が増えて、準備の時間が数分ずれて、ボールを入れる順番か、機械を回すタイミングか、何かが変わった」
「それだけで、数字が変わる?」
「抽選は物理的な装置です。ボールがどの穴に落ちるかなんて、空気の流れ一つで変わります。蝶の羽ばたき、というやつです」
背中に、冷たいものが走った。
俺は、自分の手で、自分の武器を壊したんだ。
「ナンバーズがまだ合っているのは、抽選の担当や手順が別だからでしょう。でも――」
「俺が動けば動くほど、いずれそっちもズレていく」
「そう考えるのが自然です」
レイコさんは、模造紙の青い印を見つめた。
「この青は、もう長くは持ちません。佐伯さんの記憶は、賞味期限が切れかけています」
◇
その夜、一人でリビングに座っていた。
二十四年分の数字。半年かけて叩き込み、二周目の人生のすべてを支えてきた数字。それが、少しずつ色を失っていく。
「……結局、ずるで手に入れたものは、ずるで終わるってことか」
独り言が、広すぎる部屋に吸い込まれた。
ふと、テレビのニュースが耳に入った。
――大手企業の不祥事で、株価がストップ安。
手が止まった。
知っている。このニュースを、俺は知っている。一周目でも、同じ時期に同じ会社が同じように叩かれていた。
抽選機のボールは、空気の流れ一つで変わる。
でも、企業の不祥事や景気の波は? 何万人、何百万人の人間が動かしている、巨大な流れは?
二十三歳の若造が宝くじを当てたくらいで、変わるだろうか。
「……変わらない」
つぶやいた。
「大きな流れは、変わらないんだ」
新興株のブームも、その崩壊も、世界を揺るがす金融危機も。誰がいつ何をしても、きっと同じように来る。
俺は覚えている。宝くじの番号ほど細かくはない。でも、ニュースで何度も見た、あの大暴落の日付を。あの大化けした会社の名前を。
立ち上がった。
賞味期限が切れたのは、宝くじだけだ。
俺の記憶は、まだ死んでいない。
◇
「宝くじは、やめる」
翌朝。事務所の模造紙の前で、俺はレイコさんに言った。
「全部ですか」
「全部。当たるか分からないものに、俺の記憶を賭けても仕方ない」
レイコさんは少し驚いた顔をして、それから、うなずいた。
「賢明だと思います。それで、次は?」
「株だ」
リビングのテーブルに、本を積み上げた。
簿記の教科書。証券アナリストの参考書。決算書の読み方。会社四季報。経済学の入門書。投資の名著と呼ばれる古典。高さは、俺の膝くらいまであった。
「……これ、全部読むんですか」
「読む。一周目の俺は、金のことを何も知らなかった。宝くじで当てた金だって、使い方を知らなきゃ、いずれ溶ける」
「一周目?」
「……言葉のあやだよ」
レイコさんは何も言わずに、手帳に何かを書き留めた。たぶん、それも記録されたのだろう。
一冊目を開く。貸借対照表。損益計算書。キャッシュフロー計算書。一周目の会社員時代、経理部から回ってくるたびに読み飛ばしていた書類だ。
「俺には、たぶん、まだいくつか未来の記憶が残ってる。どの会社が伸びて、どの会社が潰れるか。いつ相場が崩れて、いつ底を打つか」
「宝くじの番号ほど、正確ではないでしょうね」
「ああ。ぼんやりしてる。だから、学ぶ。記憶を、知識で裏付ける。記憶が外れたときに、知識で生き残れるように」
レイコさんが、隣の椅子を引いた。
「なら、私も読みます。佐伯さんが記憶担当、私が数字担当です」
◇
それから一か月、俺は本を読み続けた。
朝起きて読む。飯を食いながら読む。風呂でも読む。分からないところは、レイコさんに聞く。レイコさんにも分からないところは、二人で調べる。
不思議なことに、これが楽しかった。
当選番号を覚えていたときと、同じ感覚だった。数字にはリズムがある。決算書にも、株価のチャートにも、表情がある。覚えるほど、愛着がわく。
二周目に来て、初めて気づいた。俺は、金が好きなんじゃない。数字が動く瞬間が好きなんだ。
◇
二月の終わり。ミサキと小さなイタリアンで会った。
彼女は編集部の話を楽しそうにしてくれた。担当している新人作家のこと。初めて自分の企画が通ったこと。
「ショウゴくんは? 最近、何してるの?」
「勉強。株とか、会社のこととか」
「ふうん……」
ミサキは、パスタをくるくるとフォークに巻きつけてから、にっこり笑った。
「ショウゴくん、本の話をしてる私と同じ顔してる」
「そうか?」
「うん。好きなことやってる人の顔。私、その顔のショウゴくん、好きだな」
「……照れるからやめてくれ」
「やめない。今度、どんな会社を買ったのか教えてね。私、ショウゴくんの一番最初の株主になりたい」
「株主って、何を出資するんだよ」
「応援」
真顔で言うミサキに、俺は吹き出した。
◇
三月。
俺は証券口座を開いた。最初の入金は、十億円。
画面には、銘柄コードと株価がずらりと並んでいる。
「最初の一手は、決めてあるんですか」
レイコさんが、モニターを覗き込む。
「ああ」
俺は、ある小さなネット企業の名前を打ち込んだ。まだ誰も注目していない、赤字続きの会社。株価は、ほとんど底を這っている。
でも、俺は覚えている。この会社が、数年後に何十倍にもなることを。そして、その裏で何が起きるかも。
「本気ですか。財務諸表、ぼろぼろですよ」
「だから、今が一番安い」
買い注文のボタンに、指を置く。
宝くじのマークシートを塗ったときと、同じように、心臓が鳴っていた。
――さあ、ここからが本番だ。
二十六年分の当選番号で手にした、二十七億円。これを、国家予算まで育てる。
クリック。
画面の数字が、静かに動き始めた。
現在資産:2,718,423,900円
――第1部 当選番号の男 完――
次回、第2部「学ぶ者は稼ぐ」。新興株ブームの熱狂の中、若きIT社長・黒田が近づいてくる。そして、銀座の夜の女王が微笑む――。
第1部「当選番号の男」、これにて完結です。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!
全財産5万円から始まった二周目の人生は、宝くじだけで約27億円に。
でも、宝くじの番号はもう通用しません。
ここからは「記憶」と「勉強」で、本物の投資家として稼いでいきます。
次回から、第2部「学ぶ者は稼ぐ」が始まります。
株で初めての大負け、新興株ブームの熱狂、テレビで話題の若き社長・黒田。
そして、銀座の夜の女王が登場します。
もちろん、資産はここから桁が変わっていきます。
第2部からは、毎日22時に更新します。
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