第12話 最初の株
本日より第2部「学ぶ者は稼ぐ」スタートです!
宝くじを卒業した佐伯が、今度は株の世界に挑みます。
第1部とはひと味違う「稼ぎ方」を、楽しんでいただけたら嬉しいです。
注文が約定した。
画面の隅に、小さく「約定」の二文字が出た。それだけだった。
「……あれ?」
宝くじなら、当たった瞬間に世界がひっくり返る。新聞の数字が自分の券と重なった瞬間、何億という金が一気に転がり込んでくる。
株は違った。
買った。持っている。でも、画面の数字はほとんど動かない。前日と比べて、数円上がったり、数円下がったり。それだけ。
「株って、こういうものです」
隣でモニターを覗き込んでいたレイコさんが、淡々と言った。
「明日も明後日も、たぶんこんな感じです。結果が出るのは、早くて一年後。遅ければ、三年後です」
「三年……」
「宝くじの抽選日みたいに、日付が決まっていないんです。待つのも仕事のうちですよ、佐伯さん」
アストラリンク。社員四十人の小さなネット企業。サイトの利用者数は増えているのに、広告がまだうまく売れず、ずっと赤字が続いている。
一周目の俺は、この会社の名前を経済ニュースで何度も見た。数年後、新興株ブームの波に乗って、株価は何十倍にも跳ね上がる。
でも、その「数年後」がいつなのか。どの月に、どれだけ上がるのか。そこまでは覚えていない。
宝くじの番号のように、一つも欠けずに覚えているわけじゃないのだ。
◇
マンションの一室を事務所にしていたのは、すぐに限界が来た。
レイコさんが毎日出勤してくるたびに、俺は寝癖のまま玄関を開けることになる。資料の段ボールはリビングを侵食し、夜中にミサキが遊びに来る日には、慌てて片付ける羽目になった。
「事務所を借りましょう」
レイコさんの一言で、六本木の雑居ビルの七階に、小さなオフィスを借りた。三十坪ほどの部屋に、机が二つと、会議用の丸テーブルが一つ。窓からは、首都高の高架が見える。
「殺風景だな」
「仕事をする場所ですから」
そう言いながら、レイコさんは窓際に小さな観葉植物の鉢を置いた。
翌朝、俺の机の上に、ホチキスで綴じた分厚い書類が置いてあった。
『合同会社サエキ・アセット 資産管理規定(案)』
「……これ、いつ作ったの」
「昨夜です」
ページをめくる。一つの銘柄に投じるのは、資産全体の何割まで。損失がいくらを超えたら、必ず見直す。現金は常に一定額を残す。借金をして株を買うことは、原則禁止。
几帳面な字で、びっしりと書いてあった。
「佐伯さんは、たまに数字の桁を気にしなくなる癖があります。私が歯止めになります」
「信用ないなあ」
「信用しているから、歯止めになるんです」
レイコさんは、眼鏡の位置を指で直した。
その週のうちに、名刺もできあがった。
『合同会社サエキ・アセット 代表社員 佐伯ショウゴ』
レイコさんの名刺には、『業務執行社員 桐谷レイコ』とあった。
「肩書き、もっと偉そうなのにしてもいいんだよ。副社長とか」
「この会社に、社長はいません。合同会社ですから」
「……そうなの?」
「代表社員です。佐伯さん、ご自分の会社の仕組みくらいは覚えてください」
俺は名刺の束を握ったまま、少しだけ肩を落とした。
一周目の俺の名刺には、「課長」と書いてあった。二十六年かけて手に入れた、たった二文字の肩書きだった。
今の名刺には、俺の名前と、俺の会社の名前がある。
レイコさんは、自分の名刺を一枚抜き取って、しばらく黙って見つめていた。
「……銀行の名刺より、軽いですね」
「紙が薄いかな。作り直そうか」
「いいえ。軽いほうが、どこへでも持っていける気がするので」
レイコさんは、名刺を丁寧に名刺入れにしまった。その横顔が、いつもより少しだけ柔らかかった。
◇
その日の午後、俺たちは丸テーブルで勉強会を開いた。
議題は、アストラリンク。
「なぜ、この会社なんですか」
レイコさんは、会社四季報を開いたまま聞いた。
「伸びるからだよ」
「根拠は」
「……勘、かな」
「勘は、根拠になりません」
ぴしゃりと言われた。
「佐伯さんの言う『伸びる』は、今のところ根拠がありません。売上は横ばい、赤字は三期連続、現金はあと二年分しかない。普通の投資家なら、この会社の株は買いません。数字で説明してください」
「……明日までに用意する」
「今日中です」
レイコさんは容赦がなかった。
でも、それが正しいことも分かっていた。
俺の記憶は、いつか外れる。宝くじの番号がそうだったように。記憶が外れたとき、俺を生き残らせるのは、記憶じゃなく、理屈だ。
その夜、俺はオフィスに残って、アストラリンクの決算書を一行ずつ読んだ。
売上。費用。利益。どれも冴えない。でも、ページの最後のほうに、小さな表があった。
サイトの月間利用者数。
二年前の三倍。去年の二倍。毎月、確実に増えている。
「……これだ」
人が集まっている。でも、まだ金に変えられていない。それは、変え方さえ見つかれば、一気に化けるということだ。
日付が変わる少し前、俺はレイコさんの机に、手書きのメモを置いて帰った。
――利用者数が二年で三倍。広告の売り方が変われば、利益は一気に出る。今の株価は、その未来をまったく織り込んでいない。
翌朝、メモの下に、一行だけ書き足されていた。
――根拠として認めます。桐谷
◇
週末、ミサキがオフィスに差し入れを持ってきた。
「わあ、ここがショウゴくんの会社?」
紙袋の中には、手作りのおにぎりと卵焼きが入っていた。レイコさんは週末は出社しないので、オフィスには俺一人だけだ。
「狭いだろ」
「ううん、かっこいい。窓から高速道路が見えるの、ドラマの探偵事務所みたい」
ミサキは俺の机の前に回り込んで、モニターを覗き込んだ。アストラリンクの株価チャートが映っている。
「これが、ショウゴくんが買った会社?」
「そう。最初の一社」
「私、応援株主だからね。毎日見に来ちゃおうかな」
「毎日来られたら仕事にならない」
「冗談だよ」
ミサキは笑って、画面を指さした。
「この緑の数字、上がってるってこと?」
「いや、日本だと、上がってるときは赤なんだ」
「えっ、縁起いい色なのに、下がってるときじゃないの?」
「逆。赤が上がり、緑が下がり」
「ふうん……じゃあ今日は緑だから、ちょっと下がってるんだ」
ミサキは少しだけ眉を寄せて、それから両手を胸の前で組んだ。
「明日は赤になりますように」
本気で祈っているミサキの横顔を見て、俺は笑った。
◇
帰り道。
六本木の交差点で信号を待ちながら、俺は頭の中の記憶を整理していた。
この先、日本の株は、もっと下がる。
今年の秋から来年の春にかけて、平均株価はバブル崩壊後の最安値を更新し続ける。銀行が潰れるかもしれないと、毎日のように新聞が騒ぐ。
アストラリンクも、例外じゃない。一度は、買った値段の半分まで落ちるはずだ。
分かっている。全部、分かっている。
でも、宝くじの番号は、一晩で答えが出た。株は違う。答えが出るまで、何か月も、自分の金が目の前で減っていくのを見続けなければならない。
分かっていても、耐えられるだろうか。
信号が青に変わった。
人の波に押されながら、俺は横断歩道を渡った。
現在資産:2,712,800,000円
第2部、最初の一話でした。
宝くじと違って、株はすぐには答えが出ません。
しかも佐伯は、この先、株価が大きく下がることを知っています。
分かっていても、耐えられるのか――。
次回、第13話「底なし沼」。
資産が、初めて減り始めます。
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