第13話 底なし沼
九月の終わり。
朝刊の一面に、また同じ見出しが踊っていた。
『平均株価、バブル後最安値を更新』
もう何度目か分からない。夏が終わったころから、株価は坂道を転がるように下がり続けていた。
オフィスのモニターに映るアストラリンクの株価は、買った値段の六割まで落ちていた。
十億円で買った株が、六億円。
四億円が、消えた。
「……知ってたんだけどな」
誰もいないオフィスで、俺は独り言をこぼした。
知っていた。こうなることは、全部知っていた。
なのに、胃の奥がきりきりと痛む。毎朝、株価を見るのが怖い。寝る前に、明日はもっと下がるんじゃないかと考えてしまう。
宝くじは、こうじゃなかった。
一晩で答えが出た。当たるか、外れるか。外れたところで、失うのは二百円だ。
株は違う。答えが出るまで、何か月も待たされる。その間、自分の金が目の前で溶けていくのを、ただ見ていなければならない。
◇
「損切りしますか」
十月の初め、レイコさんが聞いた。
丸テーブルの上には、アストラリンクの最新の決算書が置いてあった。
「資産管理規定では、一つの銘柄の損失が投資額の三割を超えたら、見直すことになっています。今、四割を超えています」
「……しない」
「理由を聞かせてください」
「この会社は、伸びる」
「それは、前にも聞きました」
レイコさんの声は冷静だった。責める調子ではない。ただ、数字の人間として、確かめずにはいられないのだ。
俺は答えに詰まった。
本当の理由は、記憶だ。一周目で見た未来だ。でも、それを言っても、レイコさんは納得しない。
「レイコさん。この会社の現金、あとどれくらい持つ?」
「前回の決算時点で、二年弱です」
「利用者数は」
レイコさんは、決算書をめくった。
「……前年比、一・八倍。減っていません」
「会社が潰れる理由は、現金が尽きることだけだ。現金はまだある。人もまだ集まっている。下がってるのは、会社じゃなくて、世の中の空気だ」
レイコさんは、しばらく黙って決算書を見ていた。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「分かりました。なら、私も待ちます」
「……いいの?」
「佐伯さんの今の説明は、数字として成り立っています。勘じゃありません」
レイコさんは、規定の紙に小さく書き込んだ。
――例外承認。理由:財務健全性に問題なし。桐谷。
その夜、俺はオフィスに一人で残っていた。
帰っても眠れないのは分かっていた。だったら、ここで決算書を読んでいたほうがましだ。
十時を回ったころ、ドアが開いた。
「やっぱり、いましたね」
レイコさんだった。コンビニの袋を提げている。
「帰ったんじゃなかったの」
「帰りました。それから、戻ってきました」
レイコさんは、袋から缶コーヒーを二本と、おにぎりを四つ出して、丸テーブルに並べた。
「佐伯さん、今日、お昼を食べていませんよね」
言われて、初めて気づいた。朝から、何も食べていない。
二人で、黙っておにぎりを食べた。首都高を走る車の音が、窓の外から低く響いていた。
「レイコさん」
「はい」
「怖くないの。俺の判断に、会社の金を全部預けて」
レイコさんは、缶コーヒーのプルタブを開けながら、少し考えた。
「怖いですよ。銀行の窓口にいた頃より、ずっと」
「なら、どうして」
「銀行にいた頃は、怖くない代わりに、何も面白くありませんでしたから」
レイコさんは、缶を俺の缶に軽く当てた。
「乾杯は、勝ってからにしましょう。今のは、予約です」
◇
十一月。
大学の同期の村井から、久しぶりに電話がかかってきた。
『佐伯か。……ちょっと、飲まないか』
指定されたのは、新橋のガード下の焼き鳥屋だった。
村井は、二年前とは別人のように痩せていた。リクルートスーツで胸を張っていた頃の面影はない。
「うちの会社、もうだめかもしれない」
ビールを半分飲んだところで、村井がぽつりと言った。
「去年から給料の遅配が続いててさ。社長は『来年には黒字になる』って言うけど、誰も信じてない。俺、何社も受けて、あそこに決めたのに」
二年前。ゼミ室で、村井は言っていた。これからはITだ。ネット企業の株は、すごく上がっている。
俺はそのとき、言った。会社の中身を、ちゃんと見ておけ、と。
「お前の言うこと、聞いときゃよかったよ」
村井は、焼き鳥の串を皿に置いて、力なく笑った。
「佐伯は、どうしてるんだ。内定蹴ったって聞いたけど」
「投資の会社をやってる。小さいけどな」
「投資? この株安で?」
「今、ちょうど大負けしてるところだ」
村井は目を丸くして、それから、声を出して笑った。二年前と同じ笑い方だった。
「なんだよ、お前もかよ」
「でも、俺は勝つよ」
「……は?」
「一年後、ここよりずっといい店で、俺がおごる。約束する」
村井は、しばらく俺の顔を見ていた。
「お前、学生のときから、たまにそういう顔するよな。何か知ってるみたいな」
「気のせいだよ」
◇
十二月。
株価は、まだ下がり続けていた。
アストラリンクは、ついに買値の半分を割った。十億円が、四億八千万円。
その頃から、俺は夜に眠れなくなっていた。
ベッドに入っても、頭の中で株価のチャートがぐるぐる回る。記憶では、来年の春に底を打つ。でも、本当にそうなるのか。宝くじの番号のように、どこかで記憶がずれていたら?
ある金曜の夜。インターホンが鳴った。
「来ちゃった」
ドアを開けると、ミサキが両手に大きなスーパーの袋を提げて立っていた。
「寒いから、お鍋しよう。白菜、安かったの」
「連絡してくれればよかったのに」
「したよ。三回」
携帯を見ると、確かに不在着信が三件あった。気づかなかった。
ミサキは勝手知ったる様子で台所に立ち、土鍋を出して、手際よく野菜を切り始めた。
「……ミサキ。何も聞かないの?」
「何を?」
「最近、俺、変だろ」
ミサキは包丁を止めずに、言った。
「変だよ。電話出ないし、目の下にクマあるし。でも、ショウゴくんが言いたくないなら、聞かないって決めてるから」
湯気の向こうで、ミサキがちらりとこっちを見た。
「でも、前に約束したよね。危ないことになりそうなときは、一人で抱え込まないって」
俺は、ソファに座り込んだ。
約束した。宝くじのことを打ち明けた夜に。
「……今、株で、負けてる」
「どれくらい?」
「五億くらい」
ミサキの包丁が、ぴたりと止まった。
「ご、ごおく」
「ごおく」
ミサキは、まな板の上の白菜を見つめたまま、しばらく固まっていた。
「……ごめん。単位が大きすぎて、どう慰めていいか分からない」
俺は、思わず吹き出した。
ミサキもつられて笑い出して、二人でしばらく、台所とソファで笑い続けた。
鍋をつつきながら、ミサキは言った。
「でもね、ショウゴくんが大丈夫って思ってるなら、私も大丈夫だと思う」
「根拠は?」
「私の勘。前も当たったでしょ」
その夜、久しぶりに朝まで眠れた。
◇
年が明けて、2003年の春。
株価は、まだ底を探していた。
新聞には「日本経済は終わりだ」という論調の記事が並び、テレビでは評論家たちが、さらなる下落を予言していた。
その朝、俺は朝刊の日付を見て、手を止めた。
記憶の中にある、「底」の日付。それが、もうすぐそこまで来ていた。
オフィスに着くなり、俺はレイコさんの机の前に立った。
「レイコさん。現金を、全部集めてくれ」
「……全部、ですか」
「全部。銀行に置いてある分も、全部」
レイコさんは、眼鏡の奥で目を細めた。
それから、何も聞かずに、受話器を取った。
現在資産:1,906,000,000円
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