第14話 底を拾う
四月。
テレビのニュースは、朝から同じ話題ばかりだった。
――大手銀行の一つに、公的資金が注入される見通し。
「国が銀行を助けなきゃいけないほど、日本はだめになったってことですよね」
オフィスのテレビを見ながら、近くのそば屋の店員が言っていたのを思い出す。街全体が、そういう空気だった。日本は終わりだ。株なんて、もう二度と上がらない。
証券会社の担当者から電話がかかってきたのは、その日の昼過ぎだった。
『佐伯様、先ほどいただいた注文の件ですが……本当に、この金額で買われるんですか』
「はい」
『失礼ですが、今は現金で持っておくべき局面かと。どの専門家も、まだ下がると言っています』
「みんながそう言うから、今なんです」
電話の向こうで、担当者が黙り込んだ。
「全員が売りたがっているときは、誰も買わない。だから、安い。安いときに買わなかったら、いつ買うんですか」
『……承知しました。手続きを進めます』
電話を切ったあと、レイコさんがこちらを見ていた。
「今の言葉、どの本に書いてありました?」
「三冊目。古い投資の名著」
「いい勉強の成果です」
◇
その日、俺は手元の現金のほとんどを、株に変えた。
アストラリンクを、さらに買い増した。値段は、最初に買ったときの半分以下だ。
国の支援を受けることが決まった銀行の株も買った。潰れるかもしれないと騒がれて、紙くず同然の値段になっていた。
それから、記憶の中にある、数社の名前。ネット通販の会社。携帯電話向けのサービスを作っている会社。どれも、今は誰も見向きもしない小さな会社だ。
全部合わせて、十五億円。
「資産管理規定を、大きく超えています」
レイコさんは、注文の一覧を見ながら言った。
「分かってる」
「一つの局面に、資産のほとんどを賭けることになります。もし外れたら、立ち直れません」
「分かってる」
レイコさんは、しばらく黙っていた。
それから、承認欄に判を押した。
「……今回だけ、例外を認めます。この規定を作ったのは私ですので、私が例外を作る権利もあります」
「ありがとう」
「お礼は、結果が出てからにしてください」
◇
結果は、ゆっくりと出始めた。
五月。株価は、底を這ったまま動かない。
六月。少しだけ上向いた。新聞は「一時的な反発」と書いた。
七月。上がり続ける。評論家たちは「すぐに下がる」と言い続けた。
八月。銀行株が、買った値段の三倍になった。
毎朝、オフィスに着いて最初にすることは、前日の値動きの確認だった。画面を開くたびに、資産の欄の数字が増えていく。
十億。
二十億。
三十億。
九月の終わり。アストラリンクが、ある大手企業との広告提携を発表した。
利用者は増えていたのに、金に変えられなかった会社。その「変え方」が、ついに見つかったのだ。
株価は、その日だけで二割上がった。翌日も、その翌日も、上がり続けた。
「……佐伯さん」
画面を見ていたレイコさんが、珍しく声を上ずらせた。
「総資産が、五十億を超えました」
俺は、椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
宝くじで一億円が当たったときより、ずっと、胸の奥が熱かった。
あのときは、知っている数字を書いただけだった。今回は違う。損を抱えて眠れない夜を越え、決算書を一行ずつ読み、全員が逃げ出す日に、自分の判断で買った。
「宝くじの一億より、こっちの一億のほうが、重い気がする」
「当然です」
レイコさんは、眼鏡を外して、目元を指で拭った。
「これは、佐伯さんが自分で稼いだお金ですから」
「じゃあ、予約してた乾杯、しようか」
「……覚えていたんですか」
その夜、俺たちはオフィスの丸テーブルで、缶コーヒーではなく、レイコさんが帰りに買ってきたシャンパンを開けた。紙コップしかなかったので、紙コップで乾杯した。
「紙コップのシャンパン、初めてです」
「俺も」
レイコさんは一口飲んで、少しだけ笑った。
◇
週末、実家の母から電話がかかってきた。
『ショウゴ、ちゃんとご飯食べてる? 去年の暮れ、電話の声が元気なかったから、お父さんと心配してたのよ』
「……ばれてたか」
『親だもの。で、今は?』
「今は、元気。すごく」
『そう。よかった』
電話の向こうで、父が何か言っている声がした。母が笑いながら伝えてくれた。
『お父さんがね、あんたが買ってくれた車で、この前、二人で温泉に行ってきたって。運転してて楽しいって、毎日乗り回してるのよ』
「そっか。今度、もっといい温泉に連れてくよ」
『無理しなくていいのよ』
「無理じゃない。今年の正月は、ちゃんと帰る」
一周目では、十年以上帰らなかった正月だった。
◇
十月。
約束どおり、村井を銀座の寿司屋に連れていった。
カウンターだけの、小さな店。品書きには値段が書いていない。
「おい、佐伯。ここ、絶対高いだろ」
「約束しただろ。ガード下よりいい店でおごるって」
大将が握った中トロを口に入れた瞬間、村井は黙り込んだ。
「……うまい。なんだこれ」
「よかった」
「お前、大負けしてたんじゃなかったのか」
「取り返した。ついでに、ちょっと増えた」
「ちょっと、って顔じゃないぞ」
村井は笑って、それから急に真面目な顔になった。
「実はさ、転職しようと思ってる。うちの会社、もう限界だ。でも、どこに行けばいいか分からなくて」
俺は少し考えてから、言った。
「携帯電話向けのサービスをやってる会社、受けてみたらどうだ。これから、みんながネットを携帯で使うようになる。そっちは伸びる」
「携帯でネット? あんな小さい画面でか?」
「小さい画面でだ。数年後には、それが当たり前になる」
村井は、俺の顔をじっと見た。
「佐伯。お前、何者なんだよ」
「学生のときに言っただろ。中身は親父なんだって」
「……まだそれ言うか」
村井は呆れたように笑って、それでも、手帳に会社の名前を書き留めていた。
◇
十一月の初め。
俺は、ミサキに万年筆を贈った。
前に一緒に文房具店に寄ったとき、ミサキがショーケースの前で長いこと立ち止まっていた、深い青色の万年筆だ。値札を見て、小さく溜息をついていた。
「えっ……これ、あのときの」
「赤の数字になったお祝い。応援株主への配当」
「配当って、なにそれ」
ミサキは万年筆を両手で包み込んで、それから、ぱっと顔を上げた。
「大事にする。これで、担当の作家さんに、一番最初のお手紙書く」
翌週、俺はレイコさんに眼鏡を贈った。
細いフレームの、軽いチタン製。以前、レイコさんが「最近、鼻が痛い」とこぼしていたのを覚えていた。
「……私に、ですか」
「規定を破ってくれたお礼」
レイコさんは、新しい眼鏡をかけて、窓ガラスに映る自分の顔を確かめた。
「似合いますか」
「すごく」
「……そうですか」
レイコさんは、窓の方を向いたまま、しばらくこちらを見なかった。耳が、ほんのり赤かった。
ミサキの万年筆。レイコさんの眼鏡。
二人とも、まだお互いの存在を知らない。
現在資産:5,210,000,000円
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