第08話 キャリーオーバー
十一月。俺は六畳一間のアパートを出た。
新しい住まいは、都心の高層マンションの二十八階。2LDK、家賃は月四十万円。
「……広っ」
リビングだけで、前のアパートが三つ入る。床から天井まである窓の向こうに、東京の夜景がどこまでも広がっていた。
不動産屋の担当者は、学生の俺を見て最初は露骨に渋い顔をした。でも、預金残高の証明書を見せた瞬間、腰が九十度に折れた。
金の力ってすごい。
◇
それから、俺は使った。
服を買った。一周目の俺が量販店の吊るしのスーツしか着なかった反動か、気づけば百貨店の外商が家に来るようになっていた。
時計を買った。四十八歳の課長が、ショーウィンドウの前で値札を見て素通りしたブランドの、一番いいやつ。
車を買った。ドイツ製の黒いセダン。
飯を食った。予約の取れない寿司屋。ホテルの最上階のフレンチ。一人前で、昔の家賃が飛ぶ値段。
「最高だな……」
二十八階の窓辺で、グラスのワインを揺らす。
二十二歳の体は、どれだけ飲んでも翌朝ケロッとしている。
◇
「ショウゴくん、ここ……本当に住んでるの?」
初めて部屋に来たミサキは、玄関で固まっていた。
「うん。広すぎて落ち着かないけど」
「家賃、いくら?」
「……聞かないほうがいいと思う」
ミサキは窓際まで歩いていって、夜景を見下ろした。
「すごいね。こんなの、ドラマでしか見たことない」
「気に入った?」
「うん。でも、ちょっと広すぎるかも」
ミサキはそう言って、くるりと振り返った。それから、ソファに座る俺の隣に、ぴったりとくっついて座った。
「これくらいの距離が、ちょうどいい」
「……そうだな」
「ショウゴくん、お金持ちになっても、こうやって隣に座らせてね」
「当たり前だろ。ここは早瀬の――いや、ミサキの席だ」
ミサキはくすくす笑って、俺の肩に頭を乗せた。
「ケーキ買ってあるんだ。ホテルのパティシエのやつ」
「もう、そういうところだけ急にお金持ちっぽい」
二人で窓の外の夜景を見ながら、ケーキを分け合った。
その夜、彼女は帰らなかった。
◇
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚めた。隣ではミサキが小さな寝息を立てている。
窓の外では、スズメがちゅんちゅん鳴いていた。二十八階まで、よく飛んでくるもんだ。
俺は天井を見上げて、思った。
――これでいい。
金はある。彼女もいる。若さもある。
この調子で、たまにロト6を当てていれば、一生遊んで暮らせる。
投資? 経営? そんな面倒なことをしなくても、俺には当選番号がある。二十六年分の、絶対に外れない番号が。
「……楽勝だな」
そうつぶやいて、俺はもう一度目を閉じた。
このときの俺は、まだ知らなかった。
「絶対」なんてものは、この世のどこにもないということを。
◇
一億円。上限で止まった、あの金額。
桐谷さんの言葉が、ずっと頭に引っかかっていた。
――佐伯様がいなければ、全額が次回に回っていました。
つまり、1等の賞金の「器」には、一億円より多くの金が入っていたということだ。あふれた分は、キャリーオーバーとして次の回に持ち越された。
「上限は、一口あたり一億円」
二十八階のリビングで、ノートに書き出す。
「なら、二口買えば二億。五口買えば、五億」
器の中に、それだけの金が溜まっていれば、の話だ。
記憶の引き出しを、もう一度ひっくり返した。
ロト6が始まったばかりのこの時期、売上はものすごい勢いで伸びている。そして、1等の該当なしが続いてキャリーオーバーが積み上がる回が、何度かある。
誰も当てられず、繰り越しが何億にも膨らんだ回。
そこに、同じ番号を何口も投げ込む。
「……やばいな、これ」
思わず笑いがこぼれた。一口ずつ律儀に当てていた今までが、馬鹿みたいに思える。
◇
十二月。最初のキャリーオーバー回。
同じ数字を、五口。
抽選の夜、テレビの前で、俺はもう正座しなかった。ソファに寝転がって、缶ビールを片手に結果を見た。
『1等、当選口数、五口。当選金額、一億円』
アナウンサーが、少し声を上ずらせていた。
『同じ売り場から、五口の1等が出たとのことです!』
五億円。
缶ビールを、ゆっくりテーブルに置いた。
手が震えていないことに、我ながら少し驚いた。
ノートを開いて、記録をつける。
――十二月、ロト6、五口、千円。当選、五億円。
千円が、五億円。五十万倍。
一周目の俺が、二十六年働いて手にした金の、百三十倍以上を、たった一晩で。
◇
そこからの数か月は、あっという間だった。
年が明けて、2001年。
二月。また繰り越しの回。今度は四口。四億円。
三月。大学を卒業した。袴姿のミサキと、キャンパスの桜の下で写真を撮った。
「ショウゴくん、卒業おめでとう。……結局、四月からどうするの?」
「自由業、かな」
「ふふ、なにそれ。でも、ショウゴくんなら大丈夫な気がする」
「その根拠は?」
「私の勘。ショウゴくんが私の内定を当てたみたいに」
ミサキはそう言って、俺の腕にしがみついた。満開の桜の下、袴の袖がふわりと揺れた。
四月。ミサキは出版社に入社した。毎日終電近くまで働いて、会えるのは週末だけになった。
――一周目の俺みたいだな、と思った。でも、彼女は楽しそうだった。好きな本に囲まれて、目を輝かせていた。週末に会うたび、担当している作家の話を夢中で聞かせてくれた。
俺は、その時間が好きだった。
五月。六口。六億円。
六月の終わり、ミサキが初めての大型連休を取れた。
「どこか行きたいところある?」
「うーん……海、かな。仕事でずっと紙ばっかり見てるから、青いものが見たい」
翌週、俺たちは沖縄にいた。
飛行機はファーストクラス。ホテルは、海に突き出したヴィラを丸ごと一棟。プライベートビーチには、俺たち以外誰もいなかった。
「ショウゴくん、これ……いくらしたの」
「聞かないほうがいいと思う」
「それ、引っ越しのときも言ってた」
ミサキは呆れたように笑って、それから、裸足で白い砂浜に駆け出していった。
波打ち際で振り返り、両手を大きく振る。夕日が、彼女の輪郭を金色に縁取っていた。
一周目の俺は、四十八年間で一度も、こんな景色を見なかった。有給は消化しきれずに毎年消えていった。行きたい場所を考える余裕すらなかった。
――金で買えるものなんて、たかが知れている。
一周目の俺は、そう言って自分を慰めていた。
違った。金で買えるもののなかには、こういう時間がある。大切な人を、一番きれいな場所に連れていける時間が。
「ショウゴくーん! 早くー!」
「今行く!」
俺は砂を蹴って、彼女のもとへ走った。
七月。三口。三億円。
九月。五口。五億円。
◇
通帳の数字は、もう桁を数えるのが面倒になっていた。
一、十、百、千、万。十万、百万、千万。一億、十億。
「二十……三億」
二十三歳になった秋。俺の資産は、二十億円を超えていた。
一周目の俺が、二十六年働いて手にした金の、六百倍以上。
二十八階の窓から、東京の夜景を見下ろす。
この街のどこかで、一周目の俺みたいな誰かが、今夜も終電に揺られている。
でも、俺はもう、そっち側じゃない。
現在資産:2,318,425,100円
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