第07話 一億円の重さ
換金には、あの支店を選んだ。
理由は自分でもよく分からない。ただ、一億円という数字を受け取るなら、あの人の前がいいと思った。
◇
個室のドアが開いた。
「お待たせいたしました、担当の――」
桐谷さんの声が、途中で止まった。
書類と俺の顔を、三回往復する。
「……佐伯様」
「どうも。また来ました」
桐谷さんは、ゆっくりと椅子に座った。眼鏡を外して、目頭を指で押さえる。それからまた眼鏡をかけた。
「確認させてください。ロト6、第一回、1等」
「はい」
「全国で、ただ一口の」
「そうみたいですね」
「その前に、ミニロト1等を三か月で三回」
「三回目は別の支店でしたけど」
「行内の記録で見ました」
桐谷さんは、しばらく黙って俺を見ていた。
怒っているのでも、疑っているのでもない。まるで、解けない数学の問題を前にした学生のような顔だった。
「当選金額は、一億円ちょうどです。1等の上限額に達したため、超過分は次回へ繰り越されます」
「上限で止まったんですね」
「はい。佐伯様がいなければ、全額が次回に回っていました」
◇
手続きが終わったあと、俺はふと言ってみた。
「桐谷さん。一億円って、どのくらいの重さなんですか」
「……は?」
「いや、振込だから現物は見ないじゃないですか。実感がわかなくて」
桐谷さんは、ほんの一瞬、困ったように眉を寄せた。それから、手元のメモ用紙に何かを書き始めた。
「一万円札一枚が、約一グラム。百万円の束で約百グラム。一億円は、その百倍です」
「十キロ」
「はい。お米の大袋、一つ分です」
「お米……」
想像した。スーパーで売っている、十キロの米袋。
一周目の俺の二十六年分の稼ぎが、米袋一つにも届かない。
「思ったより、軽いですね」
「……そうでしょうか」
「人生を変えるには、ってことです」
桐谷さんの手が、メモの上で止まった。
「佐伯様は、この一億円で、人生を変えるおつもりなんですか」
「変えます。もう、変え始めてます」
「どう変えるんですか」
行員としての質問ではなかった。彼女自身の、純粋な好奇心だった。
俺は少し考えて、正直に答えた。
「全部、やりたいことをやります。我慢して、後回しにして、気づいたら何も残ってない。そういう人生は、もう嫌なんで」
桐谷さんは、俺の顔をじっと見た。
「……まるで、一度そういう人生を送ったことがあるみたいな言い方ですね」
どきりとした。
「想像力が豊かなんですよ」
「そうですか」
桐谷さんは、それ以上追及しなかった。代わりに、メモ用紙をちぎって、俺に差し出した。
米十キロの計算の下に、本のタイトルが三つ書いてあった。
「資産管理の入門書です。宝くじの高額当選者の方には、いつもお勧めしています」
「いつも、ですか」
「……いえ。お勧めするのは、初めてです」
眼鏡の奥の目が、少しだけ揺れた。
支店を出ると、ビル風が冷たかった。
手の中のメモを見る。きっちりとした、几帳面な字。
一億円。米袋一つ分。
でも、俺の人生を変えるには、十分すぎる重さだ。
◇
その足で、駅前の大きな書店に寄った。
メモに書かれた三冊は、すぐに見つかった。経済書の棚の、目立たない一番下の段に、地味な装丁で並んでいた。
レジに持っていくと、店員のお兄さんが少し意外そうな顔をした。学生が買うには、渋すぎる本だったらしい。
その夜から、俺は寝る前に一章ずつ読むようになった。
正直、最初は眠かった。でも、読み進めるうちに、妙な感覚が湧いてきた。
――一周目の俺の口座は、どうして増えなかったのか。
答えが、全部そこに書いてあった。
使わずに眠らせた金は、物価が上がるぶんだけ静かに目減りしていく。増やすには、働かせなければならない。そして、働かせ方には作法がある。
宝くじの番号は、俺に金をくれた。でもこの本は、金の育て方を教えようとしていた。
◇
十月の終わり。大学の図書館は、卒論に追われる四年生で埋まっていた。
窓際の席で、ミサキが分厚い資料と格闘している。俺はその向かいに座って、桐谷さんに勧められた本の二冊目を読んでいた。
『お金の基本――資産管理の考え方』
複利。分散。インフレ。リスクとリターン。
一周目の俺は、こういう本を一冊も読まなかった。給料は振り込まれ、家賃と飯代で消え、残りは普通預金に眠っていた。金利はほぼゼロ。
――そりゃ、二十六年で三百八十万しか貯まらないわけだ。
「佐伯くん、それ卒論の資料?」
ミサキが顔を上げた。
「いや、趣味」
「お金の本が趣味って、なんかおじさんみたい」
「……否定はしない」
ミサキがくすっと笑った。
◇
閉館のチャイムが鳴った。
外に出ると、もう日が暮れていた。イチョウ並木が、街灯に照らされて金色に光っている。
並んで歩く。駅までの十分間。
言うなら、今だ。
「早瀬」
「ん?」
「ちょっとだけ、いい?」
足を止めた。ミサキも止まる。
銀杏の葉が一枚、二人の間をひらひらと落ちていった。
「俺、早瀬のことが好きだ」
ミサキの目が、大きく見開かれた。
「一年のときから、ずっと好きだった。ゼミで隣に座れた日は、それだけで一日うれしかった。でも、自信がなくて、ずっと言えなかった」
言葉が、するすると出てくる。
二十六年間、胸の奥にしまっていた言葉だ。何度も、何度も、言えばよかったと後悔した言葉だ。
「今は、ちょっとだけ自信がある。だから言う。付き合ってほしい」
沈黙。
ミサキはうつむいていた。表情が見えない。
――断られても、いい。
本気でそう思った。一周目の俺は、言わずに後悔した。二周目の俺は、言って、それで終わりなら、それでいい。
「……ずるいよ」
小さな声だった。
「え?」
「ずるい。四年間、一回もそんな素振り見せなかったくせに」
ミサキが顔を上げた。目が、少し潤んでいた。
「私、佐伯くんは私に興味ないんだと思ってた。ゼミで話しかけても、いつも目そらすし。だから、諦めてたのに」
「……え」
「なのに、春休み明けから急に、髪切ったの気づいてくれたり、内定のこと信じてくれたり、花火で手、離さないでいてくれたり。ずるいよ、ほんとに」
頭が真っ白になった。
――諦めてた?
ってことは、一周目でも、もしあのとき言っていたら。
二十六年分の後悔が、一瞬で別の形に変わった。悔しいような、救われたような、名前のつけられない感情だった。
「私も、好き」
ミサキが、まっすぐ俺を見て言った。
「よろしくお願いします」
◇
どうやって駅まで歩いたのか、よく覚えていない。
気づいたら、ミサキの手を握っていた。花火の夜と同じ、小さくて少し冷たい手。でも今度は、人混みの言い訳はいらなかった。
改札の前で、ミサキが振り返る。
「また明日ね、ショウゴくん」
名前で呼ばれた。
一周目では、一度も呼ばれなかった名前。
「……また明日。ミサキ」
呼び返すと、ミサキは真っ赤になって、改札の向こうへ小走りで消えていった。
電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見た。ひどくにやけていた。
一億円が当たった夜より、ずっと。
現在資産:131,107,400円
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