第06話 ロト6、始まる
八月の最初の土曜日。河川敷の花火大会。
ゼミの有志で行こうという話だったのに、待ち合わせ場所に来たのは、俺とミサキの二人だけだった。
「みんな、ドタキャンだって」
携帯の画面を見ながら、ミサキが困ったように笑う。
紺地に白い朝顔の浴衣。髪を上げて、うなじが見えている。
一周目の俺は、この花火大会に来なかった。就活がうまくいかなくて、部屋にこもっていた。後になって、ミサキが浴衣で来ていたと人づてに聞いて、一晩眠れなかった。
――二十六年越しに、見られたな。
「どうする? 帰る?」
「せっかくだし、見ていこうよ」
「……うん」
◇
屋台の並ぶ土手を、二人で歩いた。
たこ焼き、りんご飴、焼きとうもろこし。ミサキが目を留めたものを、片っ端から買った。
「ちょっと、佐伯くん。買いすぎ」
「いいんだよ。臨時収入があったんだ」
「バイト?」
「まあ、そんなとこ」
「そういえば、内定断ったって聞いたよ。ゼミで噂になってる」
「早いな」
「大丈夫なの?」
ミサキが、まっすぐ俺を見た。からかうでもなく、責めるでもなく。ただ心配している目だった。
「大丈夫。ちゃんと考えてる。親にも話して、納得してもらった」
「……そっか。佐伯くんが言うなら、そうなんだろうね」
「信用されてるんだ」
「最近の佐伯くんは、なんか、迷いがないから」
ミサキはりんご飴をかじって、それから小さく付け加えた。
「あ、そうだ。私ね、内定もらったの。出版社。小さいところだけど、文芸の編集部」
「本当か! おめでとう」
「佐伯くん、前に飲み会で『早瀬は受かる』って言ってくれたでしょ。面接の前の日、あれ思い出したら、ちょっと落ち着けたんだ」
「……そっか」
一周目では、おめでとうすら言えなかった。二周目の俺は、言えた。それだけで、胸の奥が温かくなった。
◇
人混みを抜けて、土手の上の少し高いところに腰を下ろした。
最初の一発が上がる。
夜空に、大きな金色の輪が開いた。
「わあ……」
ミサキの横顔が、光に照らされる。
走馬灯で見た、あの横顔だった。
「本、好きだもんな」
「覚えててくれたんだ」
「覚えてるよ」
二十六年分、ずっと覚えてる。
花火の音が、胸の奥に響いた。
言ってしまおうか、と思った。今なら言える。四十八歳の中身なら、告白の一つや二つ、なんでもない。
でも――。
「佐伯くん?」
「いや、なんでもない」
まだだ、と思った。
今の俺は、小金を手にしただけの、内定を蹴った大学生だ。ミサキから見れば、将来が一番不安な男。
十月。ロト6の第一回抽選がある。
それを当ててから、ちゃんと言おう。自信を持って、彼女の前に立てるようになってから。
「綺麗だね」
ミサキがつぶやく。
「ああ。綺麗だ」
俺は花火じゃなく、彼女の横顔を見ながら答えた。
◇
花火が終わると、河川敷から駅へ向かう道は、人の波で埋まった。
「はぐれちゃいそう」
ミサキが、俺の甚平の袖をつまんだ。
それから少し迷うように指を動かして――袖を離し、俺の手を握った。
「……人、多いから」
「うん。人、多いからな」
小さくて、少し汗ばんだ手だった。
駅までの二十分間、二人ともほとんど喋らなかった。下駄の音と、遠くの屋台の発電機の音だけが聞こえていた。
改札の前で、ミサキはぱっと手を離した。
「今日、楽しかった。ありがとう、佐伯くん」
「俺も。すごく」
ミサキは改札を抜けてから、一度だけ振り返って、小さく手を振った。
その手の感触を、俺は帰りの電車でずっと握りしめていた。四十八歳の中身が、二十二歳の心臓に完全に負けていた。
◇
九月。
ロト6の発売が近づくにつれ、テレビや新聞は新しい宝くじの話題で持ちきりになった。一等最高一億円。キャリーオーバーがあれば、さらに膨らむ。
俺はノートを開き、最初の数か月分の数字と、1等の当選口数を何度も確かめた。
第一回は、該当なし。第二回も。この秋から冬にかけて、1等が誰にも当たらない回が、いくつか続く。
ノートの余白に、小さく書いた。
――ここから、桁が変わる。
◇
2000年10月。
街中に、同じポスターが貼られていた。
――新しい宝くじ、ロト6誕生。1等、最高一億円。
「いよいよだな」
駅の掲示板の前で、俺は小さくつぶやいた。
ロト6。1から43までの数字から六つを選ぶくじ。一口二百円。
二十六年後には誰もが知っている定番の宝くじだが、今はまだ生まれたばかりの赤ん坊だ。テレビでもCMがばんばん流れ、売り場には物珍しさで人が集まっている。
そして俺の頭の中には、その赤ん坊がこれから二十六年かけて吐き出す、すべての数字が入っている。
第一回の抽選は、十月の第一木曜日。
俺の記憶では、この回の1等は「該当なし」だった。日本中の誰一人として、六つの数字をすべて当てられなかった。だから1等の賞金は、まるごと次の回へ繰り越された。
本来なら誰も受け取らなかった金を、俺が受け取る。誰の取り分も奪わない。
「よし」
◇
発売初週の売り場は、大混雑だった。
会社帰りのサラリーマン。買い物袋を提げた主婦。学生のグループ。みんな、マークシートとにらめっこしている。
「誕生日で選ぶか、ラッキーナンバーで選ぶか……」
「クイックピックでいいじゃん、どうせ当たんねえよ」
隣の大学生たちの会話に、思わず口元が緩んだ。
一周目の俺も、二十六年後に同じことを言っていた。
列が進む。俺の番が来た。記入台で、マークシートを一枚取る。
目を閉じる。
――第一回、ロト6。
浮かぶ。六つの数字。それから、ボーナス数字。
半年間、通勤電車の中で何百回も繰り返した数字の並び。ホームから落ちる直前にも、頭の中で流れていた数字。一周目の俺にとっては、ただの趣味の一行目。
ゆっくりと、六つのマスを塗った。
「一口でお願いします」
◇
抽選日の夜。
俺はアパートの六畳間で、ブラウン管のテレビの前に正座していた。
ニュース番組の最後に、ロト6の結果が流れることになっている。
天気予報が終わる。スポーツコーナーが終わる。
『さて、今日から始まった新しい宝くじ、ロト6の第一回抽選結果です』
アナウンサーの声に、心臓が跳ねた。
画面に、数字が一つずつ表示されていく。
一つ目。合っている。
二つ目。合っている。
三つ目、四つ目。――合っている。
五つ目。
息を止めた。
合っている。
六つ目。
「…………」
画面に映った数字は、俺の手の中の券と、寸分違わず同じだった。
『1等、当選口数、一口』
アナウンサーが、少し驚いたように言った。
『第一回から、早くも1等の当選者が出ました!』
――俺です。
テレビに向かって、心の中で答えた。
その一口が、俺なんです。
膝の上で、券を握る手に力が入った。くしゃりと音がして、慌てて手を開く。
危ない。この紙切れ一枚が、今の俺の全財産よりはるかに価値があるのだ。
券を丁寧に伸ばして、大学ノートに挟む。それから、ノートごと胸に抱えて、畳の上に大の字になった。
蛍光灯の紐が、ゆらゆら揺れていた。
現在資産:31,107,400円(+当選券1枚)
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