第58話 その夜のホーム
2026年、三月二十七日。金曜日。
一周目の俺が、死んだ日。
朝から、雨が降っていた。
丸の内のオフィスで、俺はいつもどおり仕事をしていた。レイコさんも、真壁さんも、いつもどおりだった。ただ、二人とも、一時間に一度は、俺の部屋の前を通って、中を覗いていった。
ミサキからは、朝から三回、メールが来た。
『今日は、どこにも行かないでね』
『本当に、どこにも行かないでね』
『夜、鎌倉の家で、みんなで待ってるから』
ユイからは、小指の絵文字が一つだけ。
アリサは、ニューヨークから、昨日のうちに東京に来ていた。カオルさんも、北海道から出てきていた。
六人全員が、今夜、鎌倉の家に集まって、俺の帰りを待つことになっていた。
一周目の俺が死んだ時刻は、午前零時を少し過ぎた頃。終電一本前の電車を待つ、駅のホームだった。
その時刻を越えるまで、俺は、鎌倉の家から一歩も出ない。
――そう、みんなには約束していた。
◇
夜の九時。
オフィスを出て、鎌倉の家に向かう車の中で、俺は窓の外の雨を見ていた。
一周目の、あの夜の記憶を、何度もたどった。
年度末の繁忙期。炎上案件。部下の田中が倒れて、その穴を俺が埋めた。三日で睡眠六時間。ふらつきながら、終電一本前の電車を待つホーム。
背後から、走ってくる足音。
「すみませんっ――」
二周目のこの夜、あのホームに、俺はいない。
でも、東和システムズは、今も、年度末の繁忙期の真っ只中だった。先週、村井の知り合いから聞いた。東和システムズの、ある部署が、大きな炎上案件を抱えている。課長が倒れて、入社三年目の若手が、その穴を埋めているらしい、と。
入社三年目の若手。
田中だ。
一周目では、田中が倒れて、俺が穴を埋めた。
二周目では、課長が倒れて、田中が穴を埋めている。
――あの夜、あのホームで、ふらついているのは、田中だ。
◇
「止めてくれ」
運転手に言って、車を路肩に止めた。
携帯を取り出して、ミサキに電話をかけた。
『ショウゴくん? 今、どこ?』
「ミサキ。ごめん。一か所だけ、寄らなきゃいけない場所がある」
電話の向こうで、ミサキが息を呑んだ。
『……どこに行くの』
「一周目で、俺が死んだホームだ」
『だめ!』
ミサキの声が、悲鳴のように響いた。
『約束したでしょ! 今日は、どこにも行かないって!』
「分かってる。でも、あのホームに、今夜、一周目の俺と同じ目に遭う人がいる。俺の、一周目の部下だ」
『……え』
「一周目で、俺はあいつに何もしてやれなかった。倒れたあいつの穴を埋めるので、精一杯だった。今度は、あいつが、俺と同じ目に遭うかもしれない」
電話の向こうが、長いあいだ静かだった。
ミサキの、震える息遣いだけが聞こえた。
『……ショウゴくん』
「ああ」
『絶対に、帰ってきて。一番最初の人を、置いていかないで』
「帰る。約束する」
『……レイコさんと、真壁さんに、行ってもらう。一人では、行かせない』
◇
夜の十一時半。
一周目の俺が、毎晩使っていた駅。
改札を抜けると、ホームへ続く階段の下に、レイコさんと真壁さんが立っていた。二人とも、傘を持ったまま、少しだけ肩を濡らしていた。
「早瀬さんから、連絡がありました」
レイコさんが、静かに言った。
「止めても、行くのでしょう」
「……ああ」
「なら、私たちも行きます。佐伯さんが線路に近づいたら、二人で引き戻します」
真壁さんが、うなずいた。
「長野の出身なので、腕力には自信があります」
◇
ホームには、終電一本前の電車を待つ人たちが、まばらに立っていた。
酒の匂い。疲れた溜息。二十六年前と、何も変わらない夜のホームだった。
ホームの中ほどに、一人の若い男性が立っていた。
少し猫背で、くたびれたスーツ。鞄を、だらりと下げている。
田中だった。
その足元が、ふらついていた。
白線の、すぐ近くで。
俺は、ゆっくりと田中に近づいた。レイコさんと真壁さんが、少し後ろからついてくる。
田中の横顔が、見えた。目の下に、濃いクマ。頬がこけている。
一周目の、四十八歳の俺と、同じ顔だった。
そのとき。
ホームの反対側の階段から、ばたばたと走ってくる足音が聞こえた。
振り返ると、若い男性が、必死の形相でホームを駆けてきた。スーツの上着を脱いで、手に持っている。片手には、携帯電話。
電光掲示板が、電車の到着を告げていた。
男性は、人をかき分けるように走ってくる。その進路の先に、白線の際でふらついている、田中がいた。
「すみませんっ――」
二十六年前と、同じ声だった。
体が、勝手に動いた。
俺は、田中の腕をつかんで、ホームの内側へ、思いきり引き戻した。
走ってきた男性の肩が、さっきまで田中が立っていた場所を、かすめていった。
男性は、そのまま数歩よろけて、立ち止まった。
電車が、轟音とともに、ホームに滑り込んできた。
◇
田中は、俺の腕の中で、呆然としていた。
「……え?」
自分が何をされたのか、分かっていない顔だった。
走ってきた男性が、青い顔で引き返してきた。
「す、すみません! 大丈夫でしたか!」
男性は、何度も頭を下げた。
「子どもが、熱を出したって、妻から電話があって。この電車を逃したら、終電まで帰れなくて、それで、焦ってしまって」
男性の手の中の携帯の画面に、メッセージが表示されていた。
――熱、三十九度。早く帰ってきて。
二十六年前の、あの夜。
俺の背中を押したのは、この人だったのだ。
悪意なんて、どこにもなかった。熱を出した子どものもとへ、一刻も早く帰りたかった、ただの父親だった。
「……大丈夫です」
俺は、男性に言った。
「早く、帰ってあげてください。この電車、まだ間に合いますよ」
男性は、もう一度深々と頭を下げて、電車に飛び乗った。
ドアが閉まった。
電車が、ゆっくりとホームを離れていった。
◇
レイコさんと真壁さんが、駆け寄ってきた。
レイコさんは、俺の腕をつかんで、白線から一メートル以上、内側に引っ張った。
「……今、何時ですか」
レイコさんの声が、震えていた。
真壁さんが、腕時計を見た。
「午前零時、四分です」
一周目の俺が、死んだ時刻を、過ぎていた。
俺は、ホームの天井を見上げた。
蛍光灯が、白く光っていた。
二周目の、知ってる天井だった。
「……佐伯さん?」
腕の中で、田中が、かすれた声で言った。
「すみません、どなたですか。僕、なんで……」
「通りすがりの者だ」
俺は、田中の肩を支えて、ホームのベンチに座らせた。
「君、相当疲れてるだろう。今日は、タクシーで帰れ。代金は、俺が出す」
「え、いや、そんな」
「それと、明日は会社を休め。月曜日に、上司に言うんだ。このままだと倒れます、って」
田中は、ぽかんと口を開けたまま、俺の顔を見上げていた。
「……どうして、そんなことが分かるんですか」
「昔、同じような働き方をして、倒れた男を知ってる」
俺は、財布から一万円札を三枚出して、田中の手に握らせた。
一周目で、倒れた田中の穴を埋めながら、俺は一度も、田中に「休め」と言ってやれなかった。
二周目で、やっと言えた。
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