第57話 国家予算
2026年、三月十日。
その日の午後三時。東京市場の取引が、終わった。
丸の内のオフィスの会議室に、レイコさんと真壁さんがいた。テレビ会議の画面には、ニューヨークのアリサが映っていた。
レイコさんが、パソコンの画面を見つめていた。
数字が、確定するのを待っていた。
午後三時十五分。
レイコさんが、顔を上げた。
「確定しました」
レイコさんは、立ち上がって、俺の前に一枚の紙を置いた。
いつもの、月次の報告書と同じ形式だった。でも、今日は、一行しか書かれていなかった。
総資産:116,300,000,000,000円
百十六兆三千億円。
「日本の今年度の一般会計の予算、約百十五兆円を、超えました」
レイコさんの声は、いつもどおり淡々としていた。
でも、眼鏡の奥の目が、潤んでいた。
「二十六年前、銀行の窓口で、ミニロトの一千万円をお支払いしたとき、私は、佐伯さんがここまで来るとは、想像もしていませんでした」
レイコさんは、眼鏡を外した。
「……いいえ。少しだけ、想像していたかもしれません。あのとき、佐伯さんは、一千万円を受け取っても、ちっとも驚かなかったので」
真壁さんが、静かに拍手を始めた。
テレビ会議の画面の向こうで、アリサも拍手をしていた。
『ショウゴ。おめでとう』
アリサの声は、少しだけ震えていた。
『国家予算を稼いだ男。ウォール街の歴史に、名前が残るわよ』
俺は、報告書の数字を、しばらく見つめていた。
宝くじで一億円が当たった夜、それは米袋一つ分の重さだと教わった。
今、手の中の紙に書かれた数字は、米袋百万個分。
それでも、この紙は、驚くほど軽かった。
「……レイコさん。乾杯の予約、覚えてるか」
レイコさんは、少しだけ目を見開いた。
それから、会議室の隅の冷蔵庫から、シャンパンのボトルを一本取り出した。紙コップを、三つ。テレビ会議の画面の向こうで、アリサも自分のグラスを掲げていた。
「二十三年前は、紙コップでした」
「今日も、紙コップでいい」
四つの杯が、画面越しに掲げられた。
「乾杯」
◇
三月二十一日。土曜日。
俺は、六人を、鎌倉の家に集めた。
三年前に買った、海の見える古い洋館だった。元は、明治の頃の実業家の別荘だったらしい。広い庭には、桜の古木が三本、つぼみを膨らませていた。
いつか、六人が集まれる場所が欲しくて、買った家だった。
リビングの大きなテーブルを、七人で囲んだ。
ミサキ。レイコさん。カオルさん。アリサ。ユイ。真壁さん。
全員が、俺の顔を見ていた。
二十六年分の、待たせた顔だった。
「……全部、話す」
俺は、ゆっくりと口を開いた。
「信じてもらえないかもしれない。でも、全部、本当のことだ」
◇
俺は、話した。
一周目の人生のこと。
中堅のIT企業で、二十六年間働いた課長だったこと。独身で、貯金は三百八十万円しかなかったこと。両親にろくに親孝行もせず、正月にも帰らなかったこと。
ある夜、ネットニュースで、ロト7の十二億円の記事を見たこと。
深夜二時に、ネット小説を読んだこと。過去に戻って、宝くじの当選番号で億万長者になる小説。
それに感化されて、過去の当選番号を、半年かけて全部暗記したこと。
そして、2026年の三月。年度末の繁忙期の夜。終電の駅のホームで、後ろから走ってきた誰かに押されて、線路に落ちたこと。
走馬灯の中で、やり直したいと願ったこと。
目が覚めたら、2000年の四月の、学生アパートの天井だったこと。
「だから、俺の勘は、勘じゃなかった。一周目で見た、未来の記憶だった」
リビングに、長い沈黙が落ちた。
窓の外で、海鳥が鳴いていた。
◇
最初に口を開いたのは、ミサキだった。
「……その小説って」
ミサキは、少しだけ震える声で言った。
「去年、うちの会社で出した、あの本?」
「ああ」
ミサキは、両手で口を覆った。
「だから、あのとき、顔が真っ青になったんだ」
「ああ」
「ショウゴくんが、一周目で読んだ小説を、二周目の私が、本にしたの?」
「そうだ」
ミサキは、しばらく黙っていた。
それから、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「……ずるいよ」
二十六年前、図書館の帰りの銀杏の下で聞いたのと、同じ言葉だった。
「そんな大事なこと、二十六年も一人で抱えてたなんて。ずるいよ、ほんとに」
◇
レイコさんが、手帳を開いた。
三十冊を超えた手帳の、一冊目。2000年のページ。
「……2001年の年末。ロト6が、初めて外れました」
レイコさんは、手帳の一行を指でなぞった。
「あれは、佐伯さんの記憶と、世界がずれた日だったんですね」
「ああ。俺が目立ちすぎて、抽選の手順が変わった。それで、数字がずれた」
「それで、宝くじをやめて、株に切り替えた」
「そうだ」
レイコさんは、手帳を閉じた。
それから、眼鏡を外して、目元を押さえた。
「二十六年間、ずっと気になっていた数字の謎が、今、全部解けました」
レイコさんは、少しだけ笑った。
「……すっきりしました」
◇
カオルさんは、紅茶のカップを置いて、静かに言った。
「何かを知っている男の目。二十二年前、銀座の店で、あなたを見たときに、そう思ったの」
カオルさんは、窓の外の海を見た。
「本当に、知っていたのね」
アリサは、腕を組んで、天井を見上げていた。
「……リーマン・ショックの日付も、人工知能の波も、全部、一周目で見てたの」
「ああ」
「マクレガーが聞いたら、卒倒するわね」
アリサは、少しだけ笑った。
「でも、私の父の工場を救ったのは、一周目の記憶じゃないわよね。レイコのリストだった」
「そうだ。一周目には、佐伯キャピタルも、アリサとの出会いもなかった。二周目で、みんなと一緒に作ったものだ」
ユイが、膝の上で手を握りしめていた。
「……三月十一日も、知ってたんですね」
「知ってた。でも、ほとんど何も、止められなかった」
ユイは、首を振った。
「止められなかったけど、トラックが来てくれました。私の実家の避難所にも。それは、一周目にはなかったことなんですよね」
真壁さんは、ずっと黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「十二年前の質問の答えが、やっと分かりました。あなたは、何者なのか」
真壁さんは、少しだけ口元を緩めた。
「数字を覚えるのが得意なだけ。……嘘は、ついていなかったんですね」
◇
話し終えたとき、窓の外は、夕焼けに染まっていた。
ミサキが、涙を拭いて、俺の顔をまっすぐ見た。
「ショウゴくん。一つだけ、聞いていい?」
「何だ」
「一周目で、ショウゴくんが死んだ日。それって、いつ?」
リビングが、静まり返った。
「……三月二十七日。金曜日。来週だ」
六人の顔から、血の気が引いた。
窓の外で、夕日が海に沈んでいった。
現在資産:116,300,000,000,000円
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