第56話 最後の冬
2026年、一月。
佐伯キャピタルの総資産が、百兆円を超えた。
仕事始めの日の午後、レイコさんが報告書を持ってきた。
「本日の終値で、百兆二千億円です」
レイコさんは、いつもどおり、淡々と数字を読み上げた。
それから、手帳を開いた。一冊目の手帳ではない。二十五年の間に、レイコさんの手帳は、もう三十冊を超えていた。
「2000年、ミニロトの一千万円から数えて、一千万倍です」
「……一千万倍か」
「日本の今年度の一般会計の予算は、約百十五兆円です。あと、十五兆円」
真壁さんが、隣で補足した。
「今の相場の勢いなら、早ければ二か月で届きます」
二人は、俺の顔を見た。
「三月だ」
俺は、窓の外を見たまま言った。
「三月の、半ばまでに届く」
レイコさんが、手帳に書き込んだ。
「記録しておきます」
それから、ペンを止めて、少しだけ顔を上げた。
「佐伯さん。三月は、早瀬さんとの約束の月ですね」
「……知ってたのか」
「早瀬さんから、聞きました。2026年の春に、全部話してもらう約束だと」
レイコさんは、手帳を閉じた。
「私も、二十五年待ちました。あと二か月、待てます」
◇
一月の終わり。
俺は、一人で実家に帰った。
父は、七十八歳になっていた。去年、軽い病気で入院してから、少しだけ足腰が弱っていた。それでも、二十五年前に俺が買った車を、まだ大事に乗っていた。
「この車も、もう二十五年か」
駐車場で、父は色あせた白いセダンのボンネットを撫でた。
「買い替えようか」
「いらん。こいつは、お前が最初に買ってくれた車だ。俺が乗れなくなるまで乗る」
父は、少しだけ照れくさそうに言った。
その夜、母の作った肉じゃがを食べながら、父と二人で酒を飲んだ。
「ショウゴ」
「ん?」
「お前、二十二の春休みに、急に大人になったよな」
父は、猪口を傾けながら言った。
「あの頃のこと、たまに思い出すんだ。内定を断って帰ってきて、俺の目をまっすぐ見て話した日のこと。それまでのお前は、俺の顔もまともに見なかったのに」
「……そうだったかな」
「そうだった」
父は、猪口を置いた。
「何があったのかは、聞かん。でもな、あの日から、お前は、俺の自慢の息子だ」
俺は、何も言えなかった。
一周目の父は、俺に、そんな言葉を一度もかけなかった。いや、かける機会を、俺が作らなかったのだ。
「……ありがとう、父さん」
父は、黙って、俺の猪口に酒を注いだ。
◇
二月の初め。
俺は、一つの会社の前に立っていた。
株式会社東和システムズ。
一周目の俺が、二十六年間勤めた会社だ。
本社ビルは、二十六年前とほとんど変わっていなかった。少しだけ外壁が塗り直されていたが、エントランスの自動ドアも、ロビーの観葉植物も、記憶の中のままだった。
夕方の六時。
ビルから、社員たちが出てくる。でも、ほとんどの社員は、まだ帰らない。十二階の窓には、煌々と明かりがついていた。一周目の俺の席があった、あのフロアだ。
夜の九時過ぎ。
ビルから、一人の若い男性が出てきた。
二十代の半ば。少し猫背で、疲れた顔をしている。安物のスーツに、くたびれた鞄。
田中だった。
一周目で、俺の部下だった田中。真面目で、真面目すぎて、いつも寝不足の顔をしていた田中。一周目の最後の繁忙期に、倒れてしまった田中。
二周目でも、田中は、東和システムズに入社していた。
俺は、少し離れた場所から、田中が駅の方へ歩いていくのを見送った。
一周目の記憶を、たどる。
2026年、三月。年度末の繁忙期。
炎上案件。客先の無茶な仕様変更。部下が一人倒れて、その穴を課長が埋める。
一周目では、倒れたのが田中で、穴を埋めたのが俺だった。
二周目では、俺はいない。課長の席には、別の誰かが座っている。
そして、田中は、まだ倒れていない。
――三月の、あの夜。
一周目の俺が、終電の駅のホームで、ふらつきながら歩いていた夜。
あの夜、あのホームで、ふらついているのは、誰なのだろう。
◇
二月の初め。東和システムズの前に立った、三日後。
ユイの新しい主演映画の、完成披露試写会があった。
役柄は、震災から十五年後の東北の港町で、灯台守の祖父の跡を継ぐ女性。十四年前の『星のない夜の灯台』の、その後を描いた続編だった。
試写会のあと、ホテルの控え室で、ユイと二人きりになった。
「どうでしたか」
ユイは、少しだけ不安そうに聞いた。三十七歳になったユイは、もう日本を代表する女優の一人だった。それでも、試写会のあとは、いつも新人の頃と同じ顔をする。
「よかった。最後の場面、泣いた」
「本当ですか」
「本当だ。隣で、ミサキも泣いてた」
ユイは、ほっとしたように笑った。
それから、少しだけ真面目な顔になった。
「佐伯さん。最近、何か、すごく大事なことを考えてますよね」
「……ユイにも、分かるか」
「役者ですから。人の目を見るのが仕事です」
ユイは、控え室の窓の外を見た。
「十四年前、灯台の下で言いましたよね。佐伯さんの目は、何かを知ってて、それでも、悲しいことも嬉しいことも全部受け止めようとしてる目だって」
「言ってたな」
「今の佐伯さんの目は、何かを、終わらせようとしてる目です」
心臓が、どきりと鳴った。
ユイは、振り返って、まっすぐ俺を見た。
「……どこにも、行かないですよね」
「行かない」
「約束してください」
「約束する」
ユイは、小指を差し出した。子どもみたいな仕草だった。
俺は、その小指に、自分の小指を絡めた。
「嘘ついたら、灯台の光、一生見せてあげませんから」
ユイは、泣きそうな顔で、笑った。
◇
二月の半ば。
村井と、ガード下の焼き鳥屋で飲んだ。
二十三年前、村井が会社の倒産を心配していた、あの店だ。村井は、今は携帯のサービスの会社の副社長になっていた。
「なあ、佐伯。お前、最近、顔つきが違うな」
焼き鳥の串を置いて、村井が言った。
「何か、大きなことを決めた顔をしてる」
「……分かるか」
「二十六年、お前の顔を見てるからな」
村井は、ビールを一口飲んだ。
「大学四年の春休み明けに、お前が急に変わったときと、同じ顔だ」
俺は、少しだけ笑った。
「村井。三月が終わったら、一つ、聞いてほしい話がある」
「何だよ、改まって」
「たぶん、信じてもらえない話だ」
村井は、俺の顔をじっと見た。それから、肩をすくめた。
「お前の話で、信じなかったことなんて、一度もないぞ。中身は親父、ってやつ以外はな」
「……それも、半分くらい本当なんだ」
村井は、目を丸くした。
それから、声を出して笑った。
「なんだそれ。分かった、三月が終わったら、ここで聞いてやる。お前のおごりでな」
「ここでいいのか」
「ここがいいんだよ」
村井は、焼き鳥の串を掲げた。
頭の上を、電車が通り過ぎていった。
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