第55話 一周目の小説
2025年、九月。
人工知能の波は、止まらなかった。
半導体の会社。人工知能を作る会社。人工知能のためのデータセンターを建てる会社。そこに電気を送る会社。
世界中のお金が、未来に向かって、一斉に流れ込んでいた。
佐伯キャピタルの総資産は、去年の春に三十兆円を超えてから、一年半で、さらに倍以上に膨らんでいた。
「総資産、八十五兆円です」
九月の終わり。レイコさんが、月次の報告書を置いた。
「日本の国家予算まで、あと三十兆円を切りました」
報告書の数字を見つめながら、俺は小さく息を吐いた。
一周目の俺が死んだのは、2026年の三月。
あと、半年。
◇
その夏、六人と一緒に、北海道のカオルさんの家に遊びに行った。
小さな丘の上に建つ、木造の家だった。庭からは、遠くに海が見えた。
庭でバーベキューをした。アリサが肉を焼き、ユイが野菜を切り、真壁さんが火の番をした。レイコさんとカオルさんは、木陰の椅子に座って、それを眺めていた。
「二十年前、銀座の小料理屋で、あなたに言ったわね」
カオルさんが、冷えた白ワインを片手に言った。
「あなたがこの先、何をするのか、一番近くで見てみたいって」
「言いましたね」
「本当に、一番近くで見られたわ」
カオルさんは、庭で笑い合っている女性たちを見回した。
「ミサキさん、レイコさん、アリサ、ユイちゃん、真壁さん。みんな、あなたの周りで、自分の道を見つけた。誰も、あなたにぶら下がってない。それが、一番すごいことだと思うわ」
レイコさんが、隣で小さくうなずいた。
「佐伯さんは、去るものを追わない人でした。でも、来た人を、決して放り出さない人でもありました」
レイコさんは、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「だから、誰も去らなかったんです」
肉が焼ける音と、ユイとアリサの笑い声が、夏の風に乗って聞こえてきた。
◇
九月。
ミサキが、マンションに来た。手には、一冊の本の見本を持っていた。
四十七歳になったミサキは、出版社の社長になっていた。二年前、前の社長が引退するときに、ミサキを後継者に指名したのだ。
「見て。来月出る本。うちの会社で、今年一番力を入れてる作品」
ミサキは、少しだけ得意そうに、本をテーブルに置いた。
インターネットの小説投稿サイトで、何百万人にも読まれた作品を、書籍化したものらしい。
「最近の投稿サイトはね、タイムリープものが大人気なの。未来の知識を持って過去に戻って、人生をやり直すお話。この作品は、その中でも一番人気で、うちが三年かけて口説いて、やっと書籍化できたんだ」
ミサキは、本の表紙を、俺の方に向けた。
俺は、その表紙を見て、息が止まった。
『タイムリープした俺、宝くじの当選番号を全部知ってるので億万長者になります』
◇
――深夜二時に読んでいた、ネット小説。
一周目の俺が、布団の上で正座して読んだ、あの小説。
「……これだ」と深夜テンションでつぶやいて、宝くじの当選番号を暗記し始める、きっかけになった小説。
その小説が、今、ミサキの手で、本になろうとしていた。
「ショウゴくん?」
ミサキが、不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。
「どうしたの。顔、真っ青だよ」
「……この本、いつから投稿サイトに載ってたんだ」
「えっと、連載が始まったのは、三年前かな。完結したのが、去年」
一周目の俺は、この小説を、2025年の秋に読んだ。
そうだ。一周目でも、この小説は、ちょうどこの頃に話題になっていた。そして、たぶん、どこかの出版社から本になった。
一周目では、その出版社が、ミサキの会社だったかどうかは、分からない。一周目の俺は、ミサキがどこで何をしているのかさえ、知らなかったのだから。
「作者は、どんな人なんだ」
「ペンネームしか分からないの。会ったこともないんだ。全部、メールでやり取りしてる」
ミサキは、本の奥付を開いた。
「深夜三時、っていうペンネーム。面白いでしょ。この人、毎晩、深夜に小説を書いてるんだって」
――深夜三時。
一周目の俺も、深夜二時にこの小説を読んでいた。
◇
ミサキは、本を閉じて、俺の顔をじっと見た。
「ショウゴくん。この本のこと、知ってたの?」
俺は、少し迷った。
それから、ゆっくりとうなずいた。
「……知ってた。ずっと前から」
「ずっと前って、いつ」
「ミサキに、全部話すって約束した日に、話す」
ミサキは、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、本の表紙を、指でなぞった。
「宝くじの当選番号を、全部知ってる、か」
ミサキの声が、少しだけ震えていた。
「ショウゴくん。二十五年前、ナンバーズとか、ミニロトとか、ロト6とか、何度も当たってたよね。ノートに、全部記録してあった」
「……ああ」
ミサキは、本の表紙と、俺の顔を、交互に見た。
何かに気づきかけている顔だった。
でも、ミサキは、それ以上は何も聞かなかった。
「……来年の春、だったよね」
「ああ。2026年の、三月」
「待ってる」
ミサキは、本を胸に抱えた。
「二十五年待ったんだもん。あと半年くらい、平気」
◇
その夜、ミサキが眠ったあと、俺は一人で、その本を読んだ。
一周目の俺が、スマートフォンの小さな画面で読んだ文章。それが、紙の本になって、手の中にあった。
主人公は、死んで過去に戻り、覚えていた当選番号で一発逆転する。会社を作り、女の子に囲まれ、嫌な元上司を見返す。
読み終えたとき、窓の外は、白み始めていた。
――この小説がなかったら、俺は、当選番号を覚えなかった。
当選番号を覚えていなかったら、二周目の俺は、ただの二十二歳の大学生だった。ミサキに告白する勇気も、たぶん、なかった。
本の最後のページに、作者のあとがきがあった。
――この物語は、深夜テンションで書き始めました。もし過去に戻れたら、という、誰もが一度は考える妄想です。読んでくださった皆さんが、少しでも「もしかしたら」とワクワクしてくださったなら、こんなに嬉しいことはありません。
俺は、本を閉じて、窓の外の朝焼けを見た。
「……ワクワクしたよ」
誰に言うでもなく、つぶやいた。
「おかげで、人生が変わった」
本を閉じて、表紙をもう一度見た。
一周目の俺は、この小説の主人公を、羨ましいと思った。過去に戻れたら、と夢を見た。
二周目の俺は、その夢の中を、二十五年かけて歩いてきた。
でも、一つだけ、小説と違うところがあった。
小説の主人公は、億万長者になって終わる。
俺は、まだ終わっていない。
――あと、半年。
本を書斎の棚にしまった。一番目立つ、真ん中の段に。
その隣には、二十五年前の大学ノートが立ててあった。ナンバーズ3の、最初の一行が書かれたノートだ。
――四月、ナンバーズ3、一口、二百円。当選、九万八千四百円。
小説と、ノート。
一周目と、二周目の始まりが、同じ棚に並んでいた。
現在資産:85,000,000,000,000円
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