第54話 時間切れ
2023年、十一月。
耐える日々が、始まった。
マクレガーのファンドは、空売りを積み上げ続けた。人工知能はバブルだという記事は、毎日のように世界中のメディアに流れた。
佐伯キャピタルの保有株は、下がり続けた。
毎朝、オフィスに来て、最初に見るのは、前日の値動きだった。総資産の欄の数字が、毎日、数千億円単位で減っていく。
十八兆円。
十七兆円。
十六兆円。
二十年前、アストラリンクの株が半値を割ったとき、俺は眠れない夜を過ごした。
今は、眠れた。
不思議なことに、怖くなかった。いや、怖かった。でも、怖いと思いながら、眠ることができた。
隣に、数字を数えてくれる人がいるからだ。
◇
レイコさんは、毎朝、一枚の紙を俺の机に置いた。
その日の総資産。マクレガーのファンドの空売りの量。借り賃の推定。出資者たちへの報告期限までの日数。
紙の一番下には、毎日、手書きで一行だけ添えてあった。
――耐えてください。数字は、こちらの味方です。
「……毎日、同じことが書いてあるな」
「毎日、同じことが正しいので」
レイコさんは、表情一つ変えずに言った。
真壁さんは、マクレガーの周辺の記録を、毎日少しずつ積み上げていった。どのメディアに、いつ、どんな記事が出たか。その記事に引用された匿名のアナリストが、どこと繋がっているか。
「証拠として使えるかどうかは、まだ分かりません」
真壁さんは、分厚いファイルを俺の机に置いた。
「でも、記録は、いつか必ず役に立ちます。桐谷さんが、二十年かけて証明してくれたことです」
◇
十一月の終わりの、ある夜。
オフィスに残っていたのは、俺とレイコさんだけだった。
レイコさんが、コンビニの袋を提げて、俺の部屋に入ってきた。
「お昼、また食べていませんよね」
袋の中には、おにぎりが四つと、缶コーヒーが二本入っていた。
二十一年前、六本木の雑居ビルで、株が半値を割った冬の夜。レイコさんが持ってきてくれたのと、同じ組み合わせだった。
「……覚えてたのか」
「全部、記録してありますから」
二人で、黙っておにぎりを食べた。窓の外の皇居の森は、真っ暗だった。
「レイコさん。あのとき、言ってたよな。銀行にいた頃は、怖くない代わりに、何も面白くなかったって」
「言いました」
「今は、どうだ」
レイコさんは、缶コーヒーを両手で包んで、少しだけ考えた。
「今も、怖いです。でも、二十一年間、一日も退屈したことはありません」
レイコさんは、缶を俺の缶に軽く当てた。
「乾杯は、勝ってからにしましょう。今のは、予約です」
あの夜と、同じ台詞だった。
◇
アリサは、ニューヨークで、もう一つの戦いをしていた。
マクレガーのファンドに出資している、中東の政府系ファンドの担当者たちに、直接会いに行っていたのだ。
『マクレガーのやり方を、正直に伝えてきたわ』
アリサから、深夜に電話がかかってきた。
『嘘の記事を流して、株価を操作してること。それが、彼らの国の名前に傷をつけるかもしれないこと。真壁が集めてくれた記録も、一部だけ見せた』
「……向こうの反応は」
『最初は、相手にされなかったわ。でも、三人目の担当者が、話を聞いてくれた。若い人よ。私と同じ、数字しか信じない人』
アリサは、少しだけ笑った。
『その人が言ってたわ。うちの国は、長く付き合える投資先を探してる。短期で株価を操作して儲けるのは、国の方針に合わないって』
◇
十二月。
ある朝、アリサから、短いメールが届いた。
『マクレガーのファンドの出資者が、年末の報告会で、空売りの解消を要求したわ。期限は、来年の一月末』
俺は、そのメールを、レイコさんと真壁さんに見せた。
レイコさんは、手帳を開いて、日付を書き込んだ。
「一月末。十兆円を超える空売りを、二か月で買い戻さなければならない」
真壁さんが、静かに言った。
「時間切れです」
◇
年が明けて、2024年。
一周目の記憶どおり、人工知能の株は、また上がり始めた。
世界中の会社が、人工知能への投資を、さらに増やすと発表した。半導体の受注は、どこも過去最高を更新した。
そして、マクレガーのファンドが、空売りの買い戻しを始めた。
十兆円を超える買い戻し。
市場に、巨大な買いの波が押し寄せた。
人工知能と半導体の株価が、一気に跳ね上がった。一月の終わりには、どの銘柄も、マクレガーが攻撃を始める前の高値を、軽々と超えていた。
佐伯キャピタルの総資産は、二か月で、十六兆円から三十兆円を超えた。
「……マクレガーの空売りの買い戻しが、うちの株価を押し上げてくれた」
会議室で、俺はホワイトボードの数字を見ながらつぶやいた。
レイコさんが、静かにうなずいた。
「マクレガーは、佐伯さんを潰すために積み上げた空売りで、佐伯さんの資産を倍にしました」
真壁さんが、少しだけ口元を緩めた。
「皮肉ですね」
◇
二月。
マクレガーが、政府系ファンドの顧問を解任されたというニュースが流れた。
今回の空売りで、ファンドは数兆円の損失を出したらしい。マクレガー自身も、個人で巨額の損失を抱えたという噂だった。
同じ月。
真壁さんが積み上げた記録の一部が、アメリカの金融当局に提出された。アリサが会った、中東のファンドの若い担当者が、自分の国の名前を守るために、協力してくれたのだ。
マクレガーが関わった、メディアを使った株価操作の疑いについて、正式な調査が始まった。
◇
三月の初め。
アリサから、電話がかかってきた。
いつもと、声の調子が違った。
『ショウゴ。マクレガーから、手紙が来たわ』
「手紙?」
『メールじゃなくて、紙の手紙。手書きよ』
アリサは、少しだけ黙った。
『読み上げるわね。……「アリサ。君が正しかった。市場は、常に正しい。そして、市場は、あの東洋の男を選んだ。私は、四十年間、市場の声を聞いてきたつもりだった。だが、最後まで、本当の声は聞こえていなかったのかもしれない。君の新しい雇い主に、伝えてくれ。見事だった、と」』
電話の向こうで、アリサが小さく息を吐いた。
『七十五歳よ、あの人。たぶん、もう表舞台には出てこない』
「……アリサは、どう思う」
『分からないわ。悔しいような、少しだけ寂しいような』
アリサは、しばらく黙っていた。
『マクレガーはね、私に、ウォール街のルールを全部教えてくれた人なの。数字の読み方も、交渉のやり方も。最後は、私を追い出した人だけど』
「……そうか」
『返事を書こうと思うの。ありがとうございました、って。それだけ』
「いいと思う」
『ショウゴ』
「ん?」
『あなたが、去るものを追わない人で、よかった。だから、私たちは、誰も去らなかったのよ』
アリサは、それだけ言って、電話を切った。
窓の外では、皇居の堀端の桜が、つぼみを膨らませていた。
現在資産:31,000,000,000,000円
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