第53話 最後の賭け
2023年、十月。
マクレガーが、動いた。
最初の兆候は、東京市場の、ある半導体の製造装置の会社だった。
佐伯キャピタルが、総資産の五パーセントを投じている銘柄だ。人工知能の波に乗って、今年に入ってから株価は二倍になっていた。
その株価が、三日間で、二割下がった。
「業績に問題はありません」
会議室で、レイコさんがホワイトボードの前に立っていた。
「受注は過去最高。来期の見通しも、上方修正されたばかりです。下がる理由は、どこにもありません」
ニューヨークからのテレビ会議の画面で、アリサが険しい顔をしていた。
『売っているのは、中東の政府系ファンドよ。マクレガーが顧問をしているところ。この三日間で、空売りを一兆円近く積み上げてる』
「一兆円……」
『それだけじゃないわ』
アリサは、別の資料を画面に映した。
『同じファンドが、うちが大きく持っている銘柄の全部に、空売りを仕掛け始めてる。半導体、人工知能、クラウド。合計で、十兆円を超える規模よ』
会議室が、静まり返った。
十兆円。
佐伯キャピタルの総資産の、半分近い。
◇
真壁さんが、手元の資料を開いた。
「この一か月、マクレガーの周辺の動きを記録してきました」
真壁さんは、ホワイトボードに、いくつかの名前を書き出した。
「海外の経済メディアが三社。この一か月で、人工知能の株はバブルだ、すぐに崩壊する、という記事を、合わせて四十本以上出しています。どの記事にも、同じ匿名のアナリストのコメントが引用されています」
「……マクレガーか」
「確証はありません。でも、記事が出るタイミングと、空売りが積み上がるタイミングが、ほぼ一致しています」
真壁さんは、ペンを置いた。
「三年前の仕手戦と、同じ手口です。ただし、規模が百倍です」
レイコさんが、静かに言った。
「三年前は、市場に出回っている株が少ない銘柄を狙って、踏み上げで勝ちました。でも、今回の銘柄は、どれも大型株です。世界中の投資家が持っている。うちが買い集めても、踏み上げは起きません」
「……三年前の手は、使えないか」
「使えません」
レイコさんの声は、珍しく硬かった。
◇
翌週。
マクレガーの攻撃は、激しさを増していった。
人工知能の株はバブルだという記事が、世界中のメディアに溢れた。テレビの経済番組でも、専門家たちが「人工知能バブルの崩壊」を口にし始めた。
不安になった個人投資家たちが、人工知能や半導体の株を売り始めた。株価は、さらに下がった。
佐伯キャピタルの総資産は、二週間で、四兆円減っていた。
『マクレガーの狙いは、二つよ』
アリサが、テレビ会議で言った。
『一つは、空売りで儲けること。もう一つは、あなたの神話を壊すこと。東洋の預言者が、最後に大きく外したって、世界中に知らしめたいのよ』
「……あの人は、本当に俺のことが嫌いなんだな」
『嫌いなんじゃないわ』
アリサは、少しだけ声を落とした。
『怖いのよ。市場は常に正しい、と信じて生きてきた人が、自分より先に市場の答えを知っている人間に出会った。それが、どうしても許せないの』
◇
その週末、ユイから電話がかかってきた。
『佐伯さん。ネットのニュース、見ました。「東洋の預言者、ついに外す」って』
「見たか」
『見ました。……でも、私、信じてないですから』
ユイの声は、まっすぐだった。灯台の下で聞いたのと、同じ声だった。
『会見のとき、佐伯さんは、どっちでも私の味方だって言ってくれた。だから、今度は私が言います。どっちでも、佐伯さんの味方です』
「……ありがとう」
『それと、ミサキさんから伝言です。「勘が外れそうなときは、桐谷さんの数字を信じて」だそうです』
電話の向こうで、ユイがくすりと笑った。
『みんな、同じこと言ってますよ。一人で戦わなくていいって』
◇
その夜。
一人でオフィスに残って、窓の外の夜景を見ていた。
一周目の記憶を、何度もたどった。
2023年の秋。人工知能の株は、一時的に下がった。でも、それは、ほんの少しの調整だった。年が明けると、また上がり始めた。2024年には、さらに大きく上がった。
一周目には、マクレガーの攻撃は存在しなかった。
佐伯キャピタルが存在しなかったのだから。
今、市場で起きていることは、一周目とは違う。マクレガーという人間が、二周目の俺に向けて仕掛けている、二周目だけの戦いだ。
――大きな流れは、変わらない。
二十年以上前、宝くじの番号がずれ始めたとき、俺はそう気づいた。
抽選機のボールは、空気の流れ一つで変わる。でも、何万人、何百万人の人間が動かしている巨大な流れは、一人の人間が少しくらい動いても、変わらない。
人工知能の波は、何億人もの人間が動かしている。
マクレガーが百兆円を動かしても、その流れは、変わらないはずだ。
ドアがノックされた。
レイコさんだった。後ろに、真壁さんもいた。
「まだ、いらしたんですね」
「二人こそ」
「数字を見ていました」
レイコさんは、俺の机の前に、一枚の紙を置いた。
「佐伯さん。一つ、提案があります」
紙には、数字が並んでいた。
「マクレガーのファンドは、空売りを十兆円以上積み上げています。空売りをするには、株を借りなければなりません。借りた株には、毎日、借り賃がかかります。そして、いつかは、必ず買い戻さなければなりません」
「三年前と、同じ話だな」
「はい。でも、今回は、踏み上げではありません」
レイコさんは、紙の一番下の数字を指さした。
「時間です」
真壁さんが、続けた。
「政府系ファンドは、国のお金です。国のお金で、いつまでも損を抱え続けることは、できません。マクレガーのファンドの出資者たちには、四半期ごとに、運用の成績を報告する義務があります」
真壁さんは、ホワイトボードに、日付を書いた。
「年末までに、空売りで利益が出ていなければ、出資者たちは、マクレガーに空売りを解消するよう求めるはずです。それが、私が国税局で十三年間見てきた、大きなお金の動き方です」
レイコさんが、俺の目を見た。
「佐伯さん。あなたの勘では、人工知能の株は、これからどうなりますか」
俺は、窓の外を見た。
「年が明ければ、また上がる。2024年には、もっと大きく上がる」
「では、作戦は一つです」
レイコさんは、眼鏡を押し上げた。
「何もしないこと。売らずに、耐えること。そして、下がったところで、買い増すこと。マクレガーが、時間切れになるまで」
「……一番、つらいやつだな」
「はい。でも、佐伯さんは、二十年前の株安のとき、それをやり遂げました。私の作った規定を破って」
レイコさんは、少しだけ表情を和らげた。
「今回は、規定を守ったまま、やり遂げてください」
現在資産:18,000,000,000,000円
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