第51話 十兆円
2020年、八月。
株価は、信じられない速さで戻っていた。
三月の底から、わずか五か月。アメリカの主要な株価指数は、暴落前の高値を取り戻していた。中には、暴落前の二倍、三倍になった会社もあった。
世界中の人が家にこもり、画面越しに暮らしていた。その暮らしを支える会社たちの株が、毎日のように最高値を更新していた。
「総資産、十兆円を超えました」
八月の終わり。レイコさんが報告した。
今回も、オフィスにいたのは、俺とレイコさんと真壁さんの三人だけだった。
「三月の底から、五か月で、三兆五千億円増えています」
真壁さんが、手元の資料を見ながら言った。
「すべて、正しく記録されています。税務上の問題も、ありません」
「真壁さんが言うと、説得力が違うな」
「国税局に十三年いましたので」
真壁さんは、少しだけ得意そうに眼鏡を……かけていなかった。レイコさんの真似をしようとして、空振りしたらしい。
レイコさんが、小さく吹き出した。
◇
その夜。
六人と、またオンラインで話をした。十兆円を超えたお祝い、ということになっていた。
それぞれの画面の前に、シャンパンのグラスが用意されていた。
「十兆円って、どれくらい?」
ユイが、首をかしげた。
「日本の国家予算の、十分の一くらいです」
真壁さんが、すかさず答えた。
「……十分の一」
ユイは、グラスを持ったまま固まった。
「ショウゴさん、国家予算まで、あと十倍?」
「あと十倍」
「無理じゃない?」
画面の中の全員が、一斉に俺の顔を見た。
「……あと五年半で、いける」
アリサが、ニューヨークの画面の向こうで、肩をすくめた。
『また勘ね』
「勘だ」
レイコさんが、手帳に書き込んだ。
「記録しておきます」
カオルさんが、北海道の画面の向こうで、優雅に笑った。
「この会話、二十年近く聞いてる気がするわ」
全員が、笑った。
ミサキが、グラスを掲げた。
「じゃあ、乾杯しよう。十兆円と、みんなが元気なことに」
六つの画面の向こうで、六つのグラスが掲げられた。
「乾杯」
画面越しの乾杯は、グラスの音がしなかった。それでも、悪くなかった。
◇
八月の終わり。
銀座の月白が、営業を再開した。
人数を制限して、席の間隔を空けて。それでも、扉を開けられるようになった。
カオルさんは、北海道から、わざわざ様子を見に来ていた。カウンターの端に座り、後を継いだ若いママが、少ない客を丁寧にもてなす姿を、黙って見守っていた。
「あの子、よくやってるわ」
カオルさんは、俺の猪口に燗酒を注ぎながら、小さく言った。
「この半年、一度も弱音を吐かなかった。私の退職金も、半分しか受け取らなかったのよ。残りは自分で何とかしますって」
「カオルさんに、似てますね」
「そうかしら」
カオルさんは、少しだけ嬉しそうに笑った。
その夜、俺は、佐伯キャピタルの取引先の社長たちを、三人だけ月白に連れてきていた。人数を制限している中で、店に迷惑をかけない、ぎりぎりの人数だった。
若いママは、俺たちのテーブルに来て、深々と頭を下げた。
「佐伯様。カオルママから、いつも伺っています。今日は、ありがとうございます」
「カオルさんに、言われてたんです。景気が悪いときは、取引先の偉い人たちを連れてこいって」
「……ママらしいです」
若いママは、目元を少しだけ潤ませて、笑った。
帰り際、カオルさんが、店の階段の上まで見送りに来てくれた。
「ありがとう。お金じゃなくて、お客さんを連れてきてくれて」
「カオルさんのルールですから」
「覚えていてくれたのね」
カオルさんは、マスクの上の目を細めた。
「あなたは、いつも、人の大事にしているものを、ちゃんと大事にしてくれる。だから、みんな、あなたのそばを離れないのよ」
◇
九月。
アリサから、電話がかかってきた。
『ショウゴ。気になる話があるの』
アリサの声は、少しだけ硬かった。
『マクレガーが、また動いてる』
三年前、仕手戦に敗れてファンドを清算したマクレガーは、しばらく業界から姿を消していた。
『中東のある国の政府系ファンドが、マクレガーを顧問に迎えたらしいの。運用資産は、百兆円を超える規模よ』
「……百兆円」
『そう。うちの十倍よ』
アリサは、少しだけ声を落とした。
『業界の噂だと、マクレガーは、そのファンドで、日本市場に大きな賭けをしようとしてるらしいわ。それも、うちが大きく持っている銘柄を中心に』
「三年前と、同じか」
『規模が違うわ。三年前は、マクレガーのファンドは数兆円規模だった。今度は、百兆円の後ろ盾がある。市場そのものを、動かせる規模よ』
電話の向こうで、アリサが少しだけ黙った。
『ショウゴ。これは、たぶん、マクレガーの最後の賭けよ。七十を超えた彼が、自分の人生の最後に、あなたを潰しにくる』
◇
その夜、オフィスで、レイコさんと真壁さんに、アリサの話を伝えた。
レイコさんは、黙って聞いていた。
真壁さんは、手元のメモに、何かを書き込んでいた。
「百兆円規模の政府系ファンドが、特定の銘柄の株価を意図的に操作すれば、日本の法律でも、相手の国の法律でも、問題になります」
真壁さんは、メモから顔を上げた。
「でも、証拠をつかむのは、三年前よりさらに難しいでしょう。国と国との問題にもなります」
「……法律では、止められないか」
「止められる可能性は、低いと思います」
真壁さんは、少しだけ表情を引き締めた。
「でも、私は、十三年間、ずるをしている人を見つける仕事をしてきました。マクレガーが何をしようとしているのか、記録を集めることはできます。いつか、それが必要になったときのために」
レイコさんが、静かにうなずいた。
「数字の準備は、私がします。マクレガーのファンドが何をしてきても、すぐに対応できるように」
二人の目は、静かに燃えていた。
◇
十月。
ミサキと二人で、マンションでささやかな夕食をとった。
人が集まることがまだ難しい時期だった。外食も、旅行も、しばらくしていなかった。
ミサキは、ワイングラスを片手に、俺の顔をじっと見た。
「ショウゴくん、最近、ちょっと考え事が多いね」
「……顔に出てるか」
「出てる。二十年見てるもん」
ミサキは、グラスを置いた。
「また、誰かと戦うの?」
「たぶん、最後の戦いになる」
ミサキは、しばらく黙っていた。
それから、俺の手を取った。
「前に、北海道の雪山で約束したよね。2026年の春に、全部話してくれるって」
「ああ」
「その戦いが終わったら、話してくれる?」
「……その戦いが終わって、もう少しだけ先になる」
「そっか」
ミサキは、少しだけ寂しそうに笑った。それから、俺の手を、ぎゅっと握った。
「じゃあ、勝ってね。私、まだ二十年分の答えを、聞いてないんだから」
窓の外では、秋の月が、静かな東京の街を照らしていた。
現在資産:10,500,000,000,000円
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