第50話 止まった世界
本日より最終部、第5部スタートです!
全10話で完結します。
最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
2020年、三月。
世界が、止まった。
新しい感染症が、世界中に広がっていた。街から人が消えた。飛行機が飛ばなくなった。工場が止まり、店が閉まり、学校が休みになった。
テレビは、毎日、感染者の数と、病院の苦しい状況を伝えていた。
そして、株価が崩れた。
ニューヨークの市場は、一日で一割近く下がる日が、何度もあった。東京も、ロンドンも、同じだった。取引が一時的に止められるほどの暴落が、週に何度も起きた。
一か月で、世界中の株価が、三割以上下がった。
◇
丸の内のオフィスは、がらんとしていた。
社員のほとんどは、自宅から仕事をしていた。オフィスに来ているのは、俺と、レイコさんと、真壁さんの三人だけだった。
窓の外の皇居の森は、春の光を受けて、いつもと同じように緑に輝いていた。その下を走る道路には、車がほとんど走っていなかった。
「総資産、六兆五千億円まで減りました」
レイコさんが、マスク越しに報告した。
「一か月で、一兆七千億円。過去最大の減少です」
真壁さんが、手元の資料を見ながら、静かに言った。
「投資家の方々から、資金を引き上げたいという連絡が、今週だけで四十件以上来ています」
「引き上げは、全部認めてくれ」
「承知しています」
真壁さんは、うなずいた。この二年で、佐伯キャピタルのやり方を、すっかり理解していた。
「怖い人は、怖いうちに降りたほうがいい。ですよね」
「そう」
レイコさんが、俺の顔をじっと見た。
「佐伯さん。今回は、どうしますか」
俺は、窓の外を見た。
誰もいない道路。止まった世界。
一周目の俺は、この春、会社の会議室でマスクをつけて、在宅勤務の準備に追われていた。株価の暴落のニュースは、ほとんど見ていなかった。自分の仕事のことで、精一杯だった。
今の俺は、知っている。
この暴落は、長くは続かない。三月の終わりに、底を打つ。各国の政府と中央銀行が、桁外れの金を市場に流し込む。そして、株価は、信じられない速さで戻っていく。
戻るだけじゃない。
世界中の人が家にこもり、インターネットで買い物をし、画面越しに仕事をし、画面越しに友達と話すようになる。その仕組みを支える会社たちが、とてつもなく伸びる。
そして、その仕組みの心臓部にある、小さな半導体のチップを作る会社たちが、さらに伸びる。
「全部、買う」
俺は、振り返って言った。
「現金を、全部使う。三か月かけるつもりだったが、今回は二週間で買う」
レイコさんの手が、止まった。
「……二週間で、ですか」
「今回の底は、深いけど、短い。待ってたら、乗り遅れる」
「勘ですね」
「勘だ」
レイコさんは、手帳に書き込んだ。
それから、顔を上げた。
「承認します。規定の例外として」
「早いな」
「二十年、外れていませんので」
レイコさんは、マスクの上の目を、少しだけ細めた。笑っているのだと、分かった。
◇
その夜。
六人と、オンラインで話をした。
全員が、それぞれの家から、パソコンの画面に顔を出していた。
「ショウゴくん、元気?」
ミサキが、画面の向こうで手を振った。出版社の取締役になったミサキは、自宅の書斎から、毎日のように会議に出ているらしい。
「元気だよ。ミサキは」
「元気。でも、書店がいっぱい閉まっちゃって、紙の本が全然売れないの。電子書籍は、すごく売れてるけど」
「家にいる時間が増えたら、みんな本を読むからな」
「そうなの! 投稿サイトの小説も、すごく読まれてるんだよ」
アリサは、ニューヨークのアパートから参加していた。
『こっちは、ひどいわ。病院が足りなくて、街中にサイレンが鳴ってる。父と母は、田舎の家にこもってる。工場は、一時的に止まってるって』
「トーマスさんたちは、大丈夫か」
『大丈夫。ただ、父が退屈で死にそうだって言ってるわ。工場に行けないから』
ユイは、撮影が止まった映画の現場から、自宅に戻っていた。
「撮影、いつ再開できるか分からないんです。せっかく、主演の大事な作品だったのに」
ユイは、少しだけ寂しそうに笑った。
「でも、『灯台基金』の子たちと、オンラインで話す時間ができました。みんな、学校が休みで、不安みたいで。毎週、話を聞いてるんです」
カオルさんは、去年引退してから移り住んだ、北海道の小さな家から参加していた。窓の外に、まだ雪が残っていた。
「こっちは、静かなものよ。もともと人が少ない町だから」
カオルさんは、湯気の立つ紅茶を片手に、穏やかに笑った。
「でもね、銀座の月白が心配なの。今は、お店を開けられないでしょう。後を継いでくれた子が、家賃を払えるかどうか」
「……カオルさん」
「分かってるわ。あなたにお金を出してもらうのは、筋が違う。あの子の店だもの」
カオルさんは、少しだけ考えるように黙っていた。
「でも、私の退職金で、少しだけ助けてあげようと思ってるの。あの子が、自分の力で店を続けられるように」
レイコさんと真壁さんは、オフィスから一緒に参加していた。
「桐谷さんと真壁さん、二人ともオフィスにいるの?」
ミサキが、不思議そうに聞いた。
「出社しないと、数字が落ち着かないので」
レイコさんが、真顔で答えた。
「同じくです」
真壁さんも、真顔で答えた。
画面の向こうで、全員が笑った。
◇
翌日、実家の母から電話がかかってきた。
『ショウゴ、ニュース見てる? 怖いわねえ。お父さんも私も、もう七十を過ぎてるから、外に出るなって言われてるのよ』
「買い物は、どうしてる」
『近所のスーパーに、朝早く行ってるわ。人が少ない時間に』
「それもやめてくれ。必要なものは、全部こっちから送る」
『そんな、大げさな』
「大げさじゃない。頼むから」
電話の向こうで、母が少しだけ黙った。それから、父の声が聞こえた。
『……ショウゴ。お前のほうこそ、無理するなよ』
「俺は大丈夫だ」
『いつもそう言う。お前は昔から、大丈夫じゃないときほど、大丈夫って言うんだ』
父の声は、少しだけかすれていた。
一周目の父は、この春、どうしていたんだろう。俺は、一度も電話をしなかった。仕事が忙しいと言い訳をして。
「……父さん。この騒ぎが落ち着いたら、温泉に行こう。母さんと三人で」
『ああ。楽しみにしてる』
その日の午後、食料品と日用品を詰めた段ボールを、二週間分、実家に送った。
◇
それから二週間。
佐伯キャピタルは、持っている現金を、ほとんど全部使って、株を買った。
ネットで買い物ができる仕組みを作る会社。画面越しに会議ができる仕組みを作る会社。データを預かるクラウドの会社。そして、半導体の会社。
三月の終わり。
株価は、底を打った。
四月に入ると、株価は戻り始めた。五月も、六月も、戻り続けた。
専門家たちは、「実体経済とかけ離れた、危険な上昇だ」と言った。
十七年前、そして十一年前と、まったく同じ言葉だった。
現在資産:7,000,000,000,000円
国家予算まで、あと十倍以上。
そして、一周目で死んだ日まで、あと六年。
次回、第51話「十兆円」。
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