第49話 十兆円の目前
2019年、十二月。
一年の締めくくりに、俺は六人を、北海道の雪山に連れていった。
ニセコの山の中腹に建つ、ガラス張りのロッジ。窓の外には、真っ白な雪原と、羊蹄山の雄大な姿が広がっていた。
「わあ……真っ白!」
ロッジの玄関で、ユイが子どものように声を上げた。
「私、岩手出身だけど、こんなにさらさらの雪、初めて見た」
「パウダースノーっていうのよ」
アリサが、スキー板を担ぎながら言った。
「ニューヨークの雪は、べちゃべちゃで、すぐ灰色になるの。ここの雪は、ずっと白いのね」
レイコさんは、ロッジの暖炉の前で、すでにノートパソコンを開いていた。
「レイコさん、休暇中は閉じるって約束」
「夕方から閉じます。今は、まだ午後二時です」
真壁さんが、レイコさんの隣に座って、パソコンの画面を覗き込んだ。
「桐谷さん、その数字、今年の分ですか」
「はい。年末の最終報告の準備です」
「私も手伝います」
「……休暇中ですよ、真壁さん」
「桐谷さんこそ」
二人は顔を見合わせて、それから同時に、小さく笑った。
カオルさんは、窓際のソファで、膝に毛布をかけて、雪景色を眺めていた。五十歳を目前にして、今年の春、銀座の月白を、長年勤めてくれた若いママに譲った。
「引退したら、雪国で、こういう景色を見ながら暮らすのが夢だったの」
カオルさんは、湯気の立つ紅茶のカップを両手で包んだ。
「夢が、少しだけ早く叶ったわ」
ミサキは、俺の隣で、窓の外の雪原を見ていた。
四十一歳になったミサキは、出版社の取締役になっていた。電子書籍の部署を立ち上げてから、会社の売上は大きく伸び、今では会社の柱の一つになっていた。
「ねえ、ショウゴくん」
「ん?」
「二十年前、図書館の帰りに告白してくれたの、覚えてる?」
「覚えてるよ。銀杏の下で」
「あのとき、まさかこんなことになるなんて、思ってもみなかった」
ミサキは、ロッジの中を見回した。
暖炉の前で数字の話をしているレイコさんと真壁さん。スキー板を磨いているアリサと、それを手伝っているユイ。窓際で雪を眺めているカオルさん。
「七人で、雪山に来てるなんて」
ミサキは、くすくすと笑った。
「でも、一番最初は、私だからね」
「知ってる」
「二十年間、ずっと言ってるね、私」
「二十年間、ずっと覚えてるよ」
◇
午後は、みんなでゲレンデに出た。
アリサは、中西部の田舎育ちとは思えないほど、スキーがうまかった。大学時代、冬になるたびにコロラドの山に通っていたらしい。
「ユイ、膝をもっと曲げて! 怖がると、余計に転ぶわよ!」
「む、無理です! 怖いものは怖いです!」
ユイは、へっぴり腰で斜面を滑り降りては、何度も雪の上に転がった。そのたびに、アリサが笑いながら手を貸していた。
意外だったのは、真壁さんだった。
「真壁さん、スキーできたんですか」
「長野の出身なので。子どもの頃は、毎日滑っていました」
真壁さんは、背筋をまっすぐ伸ばしたまま、きれいな弧を描いて斜面を降りていった。調査官のときと同じ、無駄のない動きだった。
レイコさんとカオルさんは、ゲレンデの麓のカフェで、窓越しにみんなを眺めていた。
「私たちは、見る専門です」
「そうね。滑るより、見ているほうが楽しいわ」
ミサキは、俺の隣で、初心者用のなだらかな斜面を、ゆっくりと滑っていた。
「ショウゴくん、下手だね」
「一周目……いや、昔、一度もスキーに行ったことがなかったんだ」
「えー、意外。何でもできると思ってた」
ミサキは、楽しそうに笑った。
その直後、俺は盛大に転んで、雪の中に頭から突っ込んだ。
斜面の上から、ユイとアリサの笑い声が聞こえた。麓のカフェの窓の向こうで、レイコさんとカオルさんまで、肩を震わせて笑っていた。
八兆円の資産を持つ男が、雪まみれで、初心者用の斜面に転がっていた。
――悪くない。
雪の冷たさを顔に感じながら、俺は空を見上げて、少しだけ笑った。
◇
夕方。
約束どおり、レイコさんがノートパソコンを閉じた。
それから、暖炉の前に、全員を集めた。
「今年の最終報告をします」
レイコさんは、手帳を開いた。
「2019年12月27日、終値。株式会社佐伯キャピタルの総資産――」
一呼吸。
「――八兆二千億円です」
ロッジの中が、静まり返った。
「宝くじの換金窓口で、ミニロトの一千万円を受け取ってから、十九年。八十万倍です」
ユイが、指を折って数えようとして、途中で諦めた。
「……桁が、分かんない」
「大丈夫よ、ユイ。私も分からないわ」
カオルさんが、優しく笑った。
アリサが、暖炉の火を見つめながら言った。
「国家予算まで、あと少しね」
「日本の一般会計の予算は、約百兆円です」
真壁さんが、すかさず補足した。国税局にいた人らしい、正確な数字だった。
「あと、十二倍ちょっとです」
全員の視線が、俺に集まった。
「……あと、六年でいける」
俺は、暖炉の火を見ながら言った。
レイコさんが、手帳に書き込んだ。
「勘、ですね」
「勘だ」
「記録しておきます」
◇
その夜。
みんなが眠ったあと、俺は一人で、ロッジのテラスに出た。
雪は止んでいた。空には、満天の星が広がっていた。息を吐くと、白い煙が夜空に溶けていった。
俺は、記憶の引き出しを開けた。
年が明けて、2020年。
春に、世界中の市場が、大きく崩れる。
十二年前のリーマン・ショックとは、まったく違う理由で。金融の問題ではなく、世界中の人の暮らしそのものが、一時的に止まってしまうような出来事で。
株価は、一か月で三割以上下がる。誰もが絶望する。
そして、そのあとに、とてつもない上昇が来る。
半導体。人工知能。世界中のお金が、未来の技術に向かって一斉に流れ込む。
――最後の波だ。
一周目の俺が死んだのは、2026年の春だった。
駅のホームから、線路に落ちた日。
あと、六年と少し。
その日までに、国家予算を超える。
「……ショウゴくん?」
背後から、声がした。
振り返ると、ミサキが、毛布を肩にかけて立っていた。
「眠れないの?」
「少し、考え事をしてた」
ミサキは、俺の隣に並んで、星空を見上げた。
「ねえ。いつか、全部話してくれる?」
「全部?」
「ショウゴくんの、勘の正体」
ミサキは、星空を見上げたまま言った。
「桐谷さんも、カオルさんも、アリサも、ユイちゃんも、真壁さんも。みんな、気づいてるよ。ショウゴくんが、何かを知ってるって。でも、誰も聞かないの。ショウゴくんが話してくれるまで、待つって決めてるから」
胸の奥が、熱くなった。
「……いつか、必ず話す」
「いつ?」
俺は、少し考えてから、答えた。
「2026年の、春」
ミサキは、不思議そうに首をかしげた。それから、くすりと笑った。
「また、すごく具体的な勘だね」
「ああ」
「じゃあ、それまで待ってる。私、二十年待てたんだから、あと六年くらい平気」
ミサキは、毛布の半分を、俺の肩にかけてくれた。
二人で、一枚の毛布にくるまって、満天の星を見上げた。
現在資産:8,200,000,000,000円
――第4部 円と電子の錬金術 完――
第4部、これにて完結です!
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
資産は8兆円を超え、ヒロインは六人そろいました。
雪山で転ぶ八兆円の男、書いていて楽しかったです。
次回から、いよいよ最終部、第5部が始まります。
2020年代。世界が止まった春から、AIの時代へ。
そして、佐伯が一周目で死んだ「2026年の春」が近づいてきます。
最後まで、お付き合いいただけたら嬉しいです!
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