第48話 シズカ
2018年、四月。
一通の手紙が、オフィスに届いた。
白い封筒に、几帳面な字で、宛名が書いてあった。
『株式会社佐伯キャピタル 代表取締役 佐伯ショウゴ様』
差出人は、真壁シズカ。
封を切ると、便箋が二枚入っていた。
――ご無沙汰しております。四年前、御社の税務調査を担当いたしました、真壁です。
――このたび、三月末をもちまして、東京国税局を退職いたしました。
――突然のお手紙で恐縮ですが、一度、お話をさせていただけないでしょうか。仕事のことで、ご相談したいことがあります。
便箋の最後に、個人の携帯の番号が書いてあった。
◇
真壁さんと会ったのは、丸の内のホテルのラウンジだった。
四年ぶりに見る真壁さんは、少しだけ髪が伸びていた。後ろで一つに結んでいるのは、変わらない。紺のスーツも、変わらない。
でも、表情が、少しだけ柔らかくなっていた。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
真壁さんは、深々と頭を下げた。
「国税局を、辞めたんですね」
「はい。十三年、勤めました」
「なぜ、と聞いてもいいですか」
真壁さんは、コーヒーのカップを両手で包んだ。
「四年前の調査のあと、ずっと考えていたんです。私は、この仕事で、何を守りたいんだろうって」
真壁さんは、窓の外を見た。
「国税の仕事は、ずるをしている人を見つけて、正しく税金を納めてもらうことです。大事な仕事です。でも、私は、いつの間にか、大きなお金を動かしている人は全員悪人だと思い込んで、仕事をしていました」
「……調査のとき、そういう目をしてましたね」
「はい。佐伯さんを、獲物を見るような目で見ていました」
真壁さんは、少しだけ苦笑した。
「でも、御社の帳簿は、完璧でした。一円の誤りもなかった。私は、自分の思い込みが間違っていたことを、数字で突きつけられたんです」
◇
真壁さんは、鞄から、一枚の書類を取り出した。
履歴書だった。
「佐伯キャピタルで、働かせていただけないでしょうか」
真壁さんは、まっすぐ俺の目を見た。
「御社は、この四年で、総資産が五兆円を超えました。国内でも海外でも、取引はますます複雑になっています。税務も、法令順守も、これからもっと難しくなります」
真壁さんは、少しだけ身を乗り出した。
「私は、十三年間、ずるをしている会社を見つける仕事をしてきました。だから、どこに穴が開きやすいか、誰よりもよく知っています。その知識を、今度は、正しい会社を守るために使いたいんです」
俺は、履歴書を手に取った。
学歴。職歴。資格。几帳面な字で、びっしりと書いてあった。
「……レイコさんに、会ってもらえますか」
「桐谷さんですね」
真壁さんの顔が、少しだけほころんだ。
「ぜひ。四年前、あの方の索引を見たとき、正直、少しだけ嫉妬しました。こんなに美しい帳簿を作れる人がいるんだって」
◇
翌週。
真壁さんは、丸の内のオフィスの会議室で、レイコさんと向かい合っていた。
面接は、二時間に及んだ。
途中から、俺は会議室を追い出された。
「お二人の会話は、佐伯さんには退屈だと思いますので」
レイコさんに、そう言われたのだ。
会議室のドア越しに、ときどき、二人の声が漏れ聞こえてきた。税法の条文の番号。海外の取引の課税の仕組み。帳簿の索引の付け方。
二時間後、ドアが開いた。
レイコさんが、珍しく満足そうな顔をしていた。
「採用です」
「早いな」
「真壁さんは、私が十七年かけて作った索引の、たった一つの抜けを見つけました。2009年の、アメリカでの取引の、為替の換算の記録です。誤りではありませんが、説明が一行、足りていませんでした」
レイコさんは、眼鏡を押し上げた。
「私の索引に穴を見つけた人は、初めてです。この人は、この会社に必要です」
レイコさんの後ろで、真壁さんが、少しだけ照れくさそうに頭を下げていた。
◇
真壁さんは、佐伯キャピタルの法令順守部門の責任者として、五月から働き始めた。
仕事ぶりは、調査官時代と変わらなかった。毎朝誰よりも早く来て、毎晩誰よりも遅く帰る。昼は、自分で作った弁当を、自分の机で一人で食べる。
ただ、一つだけ、変わったことがあった。
ときどき、笑うようになった。
「真壁さん、最近よく笑いますね」
若手の社員が、そう言っているのを聞いた。
「……そうですか」
真壁さんは、少しだけ顔を赤くして、書類に目を落としていた。
レイコさんとは、すぐに打ち解けたようだった。昼休みになると、二人で並んで弁当を広げ、税法の改正や会計の基準について、楽しそうに話し込んでいる。
「あの二人、何の話であんなに盛り上がってるんですか」
若手の社員が、不思議そうに聞いてきた。
「たぶん、数字の話だ」
「……昼休みに?」
「昼休みだからだよ」
◇
六月。
夜の九時過ぎ。社員がほとんど帰ったオフィスで、俺は自分の部屋で仕事をしていた。
ドアがノックされた。
真壁さんだった。
四年前の調査の最終週と、同じ時間。同じ部屋。
「少しだけ、よろしいですか。仕事とは、関係ない話ですが」
「どうぞ」
真壁さんは、部屋に入ってきて、四年前と同じように、立ったまま言った。
「佐伯さん。私、四年前の質問の答えを、まだもらっていません」
「……あなたは、何者なんですか、っていう」
「はい」
真壁さんは、一歩、前に出た。
「調査官としてではなく、一人の人間として、知りたいと言いました。その気持ちは、今も変わっていません」
真壁さんの声が、少しだけ震えていた。
「この会社に来てから、ずっと見てきました。佐伯さんが、どうやって判断しているのか。何を見て、何を考えているのか。……でも、見れば見るほど、分からなくなりました」
真壁さんは、うつむいた。
「分からないのに、目が離せないんです」
部屋の中に、静寂が落ちた。
「この会社の女性たちが、なぜ誰一人として、佐伯さんのそばを離れないのか。最初は、不思議でした。でも、今は、少しだけ分かる気がします」
真壁さんは、顔を上げた。
頬が、赤くなっていた。でも、目は、四年前と同じように、まっすぐだった。
「私も、その中に、入れてもらえませんか」
――来るもの、拒まず。
俺は、立ち上がって、真壁さんの前に立った。
「……一つだけ、条件がある」
「何でしょう」
「ミサキに、会ってほしい。俺の、一番最初の人に」
真壁さんは、少しだけ驚いた顔をした。それから、小さく笑った。
「知っています。早瀬ミサキ編集長。調査のときに、確認しました」
「……そうだったな」
「先月、もうお会いしました。桐谷さんに紹介していただいて」
俺は、目を丸くした。
真壁さんは、少しだけいたずらっぽく、口元を緩めた。
「『一番最初は私だからね』と言われました。それさえ守れば、いいそうです」
現在資産:5,800,000,000,000円
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