第46話 返り討ち
夜明け前。
オフィスの会議室のホワイトボードは、数字で埋め尽くされていた。
レイコさんは、一晩中、パソコンに向かっていた。テーブルの上には、空になった缶コーヒーが六本並んでいた。
「分かりました」
午前五時。レイコさんが、ホワイトボードの前に立った。目の下に、うっすらとクマができていた。
「マクレガーのファンドは、私たちの保有する八銘柄に、合計で約六千億円分の空売りを積み上げています」
レイコさんは、ペンで数字を囲んだ。
「空売りをするには、株を誰かから借りなければなりません。マクレガーのファンドが借りている株は、主に、海外の大手年金基金と、いくつかの証券会社から出ています」
「借りた株は、いつか返さなきゃいけない」
「はい。そして、ここが重要です」
レイコさんは、ホワイトボードの別の数字を指した。
「八銘柄のうち、三銘柄。スマートフォンの部品の会社、クラウドの会社、それからSNSの会社。この三つは、市場に出回っている株の量が、もともと少ないんです。発行済みの株の多くを、創業者や長期の投資家が持っていて、ほとんど売りに出ない」
レイコさんの目が、きらりと光った。
「マクレガーは、この三銘柄で、市場に出回っている株の半分近くを空売りしています。もし、ここで誰かが大量に買い集めたら」
「……マクレガーは、株を買い戻せなくなる」
「そうです。買い戻そうとしても、売ってくれる人がいない。株価は、跳ね上がります。空売りをしている側は、どこまでも損が膨らむ」
レイコさんは、ペンを置いた。
「踏み上げ、と言います」
◇
午前七時。ニューヨークのアリサと、テレビ会議をつないだ。
レイコさんの説明を聞いて、アリサは長いあいだ黙っていた。
それから、画面の向こうで、ゆっくりと笑った。
『……レイコ。あなた、天才ね』
「数字を数えただけです」
『いいえ。マクレガーの一番弱いところを、一晩で見つけた。私が九年前に気づけなかったことよ』
アリサは、身を乗り出した。
『必要な資金は』
「三銘柄を買い集めるのに、約八千億円。今の総資産の、三割近くです」
レイコさんは、少しだけ俺の方を見た。
「規定では、承認できない金額です」
「……レイコさん」
「でも」
レイコさんは、眼鏡を押し上げた。
「今回は、私が、例外を提案します」
会議室に、静寂が落ちた。
十六年間、俺が規定を破るたびに、それを止めてきたのは、レイコさんだった。
そのレイコさんが、自分から、例外を提案している。
「佐伯さんの勘ではなく、私の数字で、例外を作ります。責任は、私が取ります」
「……責任は、俺が取る」
「いいえ。これは、私の作戦です」
レイコさんは、珍しく、一歩も引かなかった。
画面の向こうで、アリサが肩をすくめた。
『二人とも、責任の取り合いしてる場合じゃないわよ。市場が開くまで、あと二時間』
◇
もう一つ、武器が届いた。
午前八時。カオルさんから、電話がかかってきた。
『昨夜、例の外資系の証券会社の人が、お店に来たわ』
カオルさんの声は、少しだけ眠そうだった。でも、その奥に、確かな手応えがにじんでいた。
『三時間かけて、聞き出したわ。悪い噂を流してた業者の名前。依頼主との連絡に使ってたメールの一部。全部、メモにしてある』
「……カオルさん」
『それと、その証券会社の人、良心が痛んでたみたい。証拠を、しかるべきところに出してもいいって言ってくれたわ。私が、少しだけ背中を押したけど』
「ありがとうございます」
『お礼は、勝ってからにしなさい。……って、レイコさんなら言うでしょうね』
カオルさんは、くすりと笑って電話を切った。
◇
午前九時。東京市場、取引開始。
佐伯キャピタルは、三銘柄の買い集めを始めた。
最初は、静かに。少しずつ。市場に気づかれないように。
午前十時。三銘柄の株価が、じわりと上がり始めた。
午前十一時。上昇が、加速した。
マクレガーのファンドが、慌てて株を買い戻そうとし始めたのだ。でも、売ってくれる人がいない。市場に出回っている株は、もうほとんど、佐伯キャピタルが買い集めてしまっていた。
正午。スマートフォンの部品の会社の株価が、一日の値幅の上限まで上がった。ストップ高。
午後。クラウドの会社も、SNSの会社も、ストップ高。
翌日も、その翌日も、三銘柄はストップ高を続けた。
マクレガーのファンドは、空売りを買い戻すために、跳ね上がった値段で、わずかに出てくる株を必死に買い漁った。そのたびに、株価はさらに上がった。
◇
五日目。
アリサから、電話がかかってきた。
『マクレガーのファンドが、資金を集めきれなくなったわ。出資者の中東の投資家たちが、一斉に資金を引き上げ始めた』
アリサの声は、静かだった。
『今回の損失は、一兆円を超えたって。ファンドは、たぶん清算されるわ』
その同じ日。
日本の金融当局が、ネットで根拠のない噂を流して株価を操作した疑いで、ある業者を調べ始めたというニュースが流れた。カオルさんが背中を押した証券会社の社員が、証拠を提出したらしかった。
業者の依頼主として、海外のあるファンドの名前が、小さく報じられた。
◇
その夜。
アリサのもとに、一本の電話がかかってきたと、後で聞いた。
マクレガー本人からだった。
『……アリサ。君が、あの女の作戦を手伝ったのか』
アリサは、答えた。
「いいえ。作戦を立てたのは、レイコよ。私は、ただ見ていただけ」
『……あの男の周りには、どうしてこう、手強い女ばかり集まるんだ』
「さあね」
アリサは、少しだけ笑った。
「一つだけ教えてあげる、マクレガー。あの人の周りの女はね、誰一人、あの人の側から去らないのよ。年収をいくら積まれても、どんなに脅されても。あなたには、一生分からないでしょうけど」
マクレガーは、何も言わずに電話を切ったという。
◇
週末。
オフィスの会議室で、レイコさんが最終報告をした。
「三銘柄の買い集めによる評価益、約七千億円。マクレガーの攻撃で減った分を取り戻して、さらに上回りました」
レイコさんは、手帳を閉じた。
「総資産、三兆五千億円です」
会議室に、拍手が起きた。
レイコさんは、少しだけ頬を赤くして、それから、俺の方を見た。
「佐伯さん。今回、私は、初めて佐伯さんより先に答えを見つけました」
「ああ」
「記録しておきます」
レイコさんは、手帳を開いて、何かを書き込んだ。
覗き込むと、こう書いてあった。
――2017年4月。桐谷の勘、的中。
「勘は、根拠にならないんじゃなかったのか」
「数字に基づいた勘は、根拠になります」
レイコさんは、すまし顔で手帳を閉じた。
その耳が、ほんのり赤かった。
窓の外では、皇居の堀端の桜が、ちょうど満開を迎えていた。
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