第45話 仕手戦
2017年、三月。
異変に最初に気づいたのは、アリサだった。
『ショウゴ。おかしな売りが入ってる』
ニューヨークとのテレビ会議の画面で、アリサは険しい顔をしていた。
『うちが一番大きく持ってる日本の銘柄。スマートフォンの部品の会社。この二週間、毎日、決まった時間に、大量の売りが出てる』
画面に、株価のグラフが映った。
二週間で、株価は二割下がっていた。
「業績が悪いのか」
『いいえ。業績は過去最高よ。新型のスマートフォンの部品の受注も、去年の倍。下がる理由が、どこにもない』
アリサは、別の画面を開いた。
『それと、この二週間で、ネットの掲示板やSNSに、この会社の悪い噂が急に増えてる。会計に不正がある。大口の取引先を失う。社長が近く辞任する。全部、根拠のない話よ。でも、その噂が出るたびに、売りが加速してる』
レイコさんが、手元の資料をめくった。
「この会社の株を、うちは総資産の八パーセント持っています。株価が二割下がったことで、評価額は、すでに五百億円近く減っています」
「……誰かが、意図的に株価を下げてる」
『そう。そして、私には心当たりがある』
アリサは、一枚の資料を画面に映した。
ある海外のファンドの、最近の取引の記録だった。
『マクレガーの、新しいファンドよ。中東と欧州の資金を集めて、去年立ち上げたファンド。この二週間、日本の市場で、このスマートフォンの部品の会社の空売りを、少しずつ積み上げてる』
◇
空売り。
株を借りてきて売り、値段が下がったところで買い戻して返す。その差額が、利益になる。
株価を下げれば下げるほど、儲かる。
そして、株価を下げるために、根拠のない悪い噂を流す。
「……典型的な、仕手戦ですね」
レイコさんが、静かに言った。
「法律に触れる可能性もありますが、噂の出どころを特定するのは難しい。証拠をつかむのは、ほぼ不可能です」
『それだけじゃないわ』
アリサの声が、硬くなった。
『マクレガーの狙いは、この会社じゃない。佐伯キャピタルよ』
画面の向こうで、アリサは別の資料を開いた。
『うちが大きく持ってる銘柄は、ほかに七つある。マクレガーのファンドは、その七つすべてに、少しずつ空売りを積み上げ始めてる。一つずつ株価を崩して、うちの評価額を削っていく。そうすれば、うちに資金を預けている投資家たちが不安になって、資金を引き上げ始める』
「投資家が逃げれば、うちは保有株を売らなきゃいけなくなる。売れば、株価はさらに下がる」
『そう。そして、マクレガーは、下がりきったところで空売りを買い戻して、大儲けする』
アリサは、画面越しに、まっすぐ俺を見た。
『九年前、彼は私に言われたのよ。市場は常に正しい、あなたは負けて私は勝った、って。あの屈辱を、彼は一日も忘れてない。業界中に、そう言いふらしてるらしいわ。――佐伯キャピタルを潰して、東洋の預言者の神話を終わらせる、って』
◇
その夜。
銀座の小料理屋で、カオルさんに会った。
「マクレガーね。名前は、聞いたことがあるわ」
カオルさんは、燗酒の猪口を手のひらで温めながら言った。
「先月、お店に、ある外資系の証券会社の人が来たの。その人が、酔って言ってたわ。最近、日本の小型株の悪い噂を、ネットに流す仕事を請け負ってる業者がいるって。依頼主は、海外のファンドらしいって」
「……その業者の名前は」
「聞きそびれたわ。でも、その証券会社の人は、また来週来るって言ってた」
カオルさんは、猪口を置いて、俺の目を見た。
「探ってみましょうか」
「危なくないですか」
「銀座の女を、甘く見ないで」
カオルさんは、着物の袖で口元を隠して、静かに笑った。
「お酒の席で、人が口を滑らせるのを待つのは、私の三十年の仕事なのよ」
◇
翌週。
マクレガーの攻撃は、激しさを増していった。
スマートフォンの部品の会社に続いて、佐伯キャピタルが大きく持っているクラウドの会社、SNSの会社の株価も、次々と下がり始めた。どの会社にも、根拠のない噂が流れていた。
ネットの経済ニュースには、こんな見出しが並び始めた。
『佐伯キャピタル、保有株が軒並み急落――「預言者」の神話に陰り』
『資産三兆円の投資会社、運用に異変か』
書いたのは、沢口記者ではなかった。名前も聞いたことのない、ネットの経済メディアだった。
総資産は、二週間で、二千億円以上減っていた。
オフィスの空気が、少しずつ重くなっていった。
「代表。投資家の方から、問い合わせが増えています」
広報の担当者が、青い顔で報告に来た。
「資金を引き上げたいという連絡も、三件ありました」
「引き上げたい人には、引き上げてもらってくれ」
「……よろしいんですか」
「怖い人は、怖いうちに降りたほうがいい。十年前と同じだ」
担当者は、戸惑ったような顔で部屋を出ていった。
その夜、ミサキから電話があった。
『ショウゴくん、ネットのニュース見たよ。「神話に陰り」だって』
「見たか」
『見た。でも、全然心配してないから』
ミサキは、あっさりと言った。
『株で五億負けてたときも、アメリカで毎月保険料払ってたときも、ショウゴくんは最後に勝ったもん。私の勘、今回も当たるよ』
「……今回は、勘じゃ勝てないかもしれない」
『じゃあ、桐谷さんの数字で勝って』
ミサキは、何でもないことのように言った。
『ショウゴくんの周りには、勘が当たる人も、数字が読める人も、噂を集められる人もいるでしょ。一人で戦わなくていいの』
◇
その夜、オフィスに残っていたのは、俺とレイコさんだけだった。
窓の外の皇居の森は、真っ暗だった。
「佐伯さん」
レイコさんが、静かに言った。
「今回は、勘ではなく、数字で戦えますか」
「……どういう意味だ」
「これまで、佐伯さんは未来を知っているかのように動いてきました。でも、今回の相手は、市場ではありません。人間です。マクレガーという人間が、意図的に仕掛けてきている。人間の悪意は、勘では読めないかもしれません」
レイコさんの言葉は、鋭かった。
確かに、そうだった。一周目の記憶には、マクレガーの仕手戦なんて存在しない。佐伯キャピタルという会社自体が、一周目には存在しなかったのだから。
この戦いには、答えがない。
「……レイコさんの言うとおりだ。今回は、記憶じゃ戦えない」
「記憶?」
レイコさんが、眉をひそめた。
俺は、少しだけ笑った。
「勘のことだよ。……レイコさん、数字を全部集めてくれ。マクレガーのファンドの空売りの量。借りてる株の出どころ。いつまでに買い戻さなきゃいけないのか。全部」
レイコさんは、眼鏡を押し上げた。
「三日ください」
「一日でいい」
「……今夜中に、やります」
レイコさんは、パソコンの前に座り直した。
窓の外で、春の夜風が、ビルの谷間を吹き抜けていった。
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