第44話 小さな画面
2015年。
街の風景が、すっかり変わっていた。
電車の中では、誰もが手のひらの小さな画面を見ている。新聞を広げている人は、ほとんどいない。文庫本を読んでいる人も、ずいぶん減った。
スマートフォン。
八年前にアメリカで最初の一台が発売されたとき、日本の専門家の多くは「日本では売れない」と言っていた。
今では、小学生まで持っている。
◇
佐伯キャピタルは、この数年、ある種類の会社に、少しずつ、でも大量に投資を続けていた。
スマートフォンの部品を作る会社。スマートフォン向けのアプリを作る会社。写真や短い文章を投稿して、世界中の人とつながるサービスの会社。そして、インターネットの向こう側で、膨大なデータを預かる「クラウド」の会社。
日本の会社も、アメリカの会社も、中国の会社もあった。
「長期保有の銘柄だけで、総資産の四割を超えました」
月次の報告で、レイコさんが言った。
「一度も売っていない銘柄が、ほとんどです。中には、買値の二十倍を超えたものもあります」
「売らないのか、って顔してるな」
「規定では、一つの銘柄が総資産の一割を超えたら、一部を売ることになっています。いくつかの銘柄が、その上限に近づいています」
「規定どおりにしてくれ。ただし、売るのは最小限で」
「……理由は」
「この会社たちは、あと五年、十年、伸び続ける」
レイコさんは、眼鏡を押し上げた。
「勘、ですね」
「勘だ」
「記録しておきます」
レイコさんは、手帳に書き込んだ。ここ数年、レイコさんは「勘」という言葉を聞くたびに、反論せずに記録だけするようになっていた。十四年間の的中記録が、反論の必要をなくしていた。
◇
六月。
大学の同期の村井が、久しぶりにオフィスを訪ねてきた。
村井は、携帯電話向けのサービスを作っている会社で、取締役になっていた。
「スマートフォンのおかげで、会社の売上が三倍になったんだ。十年前に、お前が言ったとおりだよ。小さい画面で、みんながネットを使うようになるって」
村井は、ソファに深く座って、窓の外の皇居を眺めた。
「お前の言うこと、全部当たってるよな。携帯のことも、親父の会社のことも、宮城の叔母さんのことも」
「たまたまだよ」
「たまたまで、十五年当たり続けるか」
村井は、少しだけ真面目な顔になった。
「なあ、佐伯。俺、ずっと思ってたんだけどさ。大学四年の春休み明けから、お前、急に別人みたいになったよな」
心臓が、どきりと鳴った。
「それまでは、俺と同じで、将来が不安で、就活に追われて、いつも暗い顔してた。それが、春休みが終わったら、急に落ち着いて、何でも知ってるみたいな顔になってた」
村井は、俺の顔をじっと見た。
「あの春休みに、何があったんだ」
俺は、少し考えてから、答えた。
「……一回、死んだんだよ」
村井は、目を丸くした。
それから、声を出して笑った。
「なんだそれ。中身は親父、の次は、一回死んだ、かよ」
「本当だよ」
「はいはい。お前の冗談、二十年経っても分からねえわ」
村井は、笑いながら立ち上がった。
「まあいいや。今度、ガード下の焼き鳥屋、行こうぜ。取締役になっても、あそこの焼き鳥が一番うまいんだ」
◇
七月。
日曜日の昼下がり、丸の内の大きな書店で、文芸の新刊の棚を眺めていた。ミサキの編集部から出た新刊が、平台に積まれているのを確かめに来たのだ。
隣に、見覚えのある横顔があった。
後ろで一つに結んだ黒髪。今日はスーツではなく、白いシャツにグレーのスカート。手には、ミサキの編集部の新刊を一冊持っていた。
「……真壁さん」
真壁さんは、驚いたように振り返った。それから、少しだけ気まずそうに会釈した。
「佐伯さん。こんなところで」
「その本、うちの……知り合いの編集部の本です」
「知っています。早瀬ミサキ編集長の編集部ですよね」
俺は、目を丸くした。
「調査のとき、佐伯さんの交友関係も、一通り確認しましたので」
真壁さんは、表情を変えずに言った。それから、手の中の本に目を落とした。
「この編集部の本、私、好きなんです。去年の灯台の映画の原作も、ここでしたよね。三回、読みました」
「……そうなんですか」
「調査が終わってから、読みました。調査中は、関係者の作品に触れるのは、控えていたので」
真面目な人だ、と思った。
真壁さんは、本をレジに持っていこうとして、ふと足を止めた。
「佐伯さん。あの調査のあと、私、少しだけ考えが変わったんです」
「どういうふうに」
「大きなお金を動かしている人は、みんなどこかでずるをしている。ずっと、そう思って仕事をしてきました。でも、そうじゃない人もいるんだって」
真壁さんは、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「それだけです。失礼します」
真壁さんは、軽く頭を下げて、レジのほうへ歩いていった。
背筋の伸びた後ろ姿を、俺はしばらく見送っていた。
◇
九月。
ミサキの出版社に、大きな変化があった。
紙の本の売上が年々減る一方で、スマートフォンで読む電子書籍の売上が、急激に伸びていた。ミサキは、文芸編集部の編集長のまま、新しく立ち上がった電子書籍の部署の責任者も兼ねることになった。
「私、スマホで小説を読む人なんて、ほとんどいないと思ってたの」
マンションのリビングで、ミサキは自分のスマートフォンの画面を見せてくれた。電子書籍の売上のグラフが、右肩上がりに伸びていた。
「でも、違った。通勤電車の中で、若い人たちがスマホで小説を読んでるの。紙の本を持ち歩かない人たちが、スマホなら読んでくれる」
ミサキは、少しだけ興奮したように言った。
「最近はね、インターネットの小説投稿サイトから、本になる作品も増えてるの。素人の人が書いた小説が、何十万人にも読まれて、そこから書籍化されるんだよ」
「へえ」
「この前、編集部で企画会議があってね。投稿サイトで人気の作品を、片っ端から読んだの。そしたら、面白いのがいっぱいあって」
ミサキは、スマートフォンの画面をスクロールした。
「タイムリープとか、異世界転生とか。主人公が、未来の知識を持って過去に戻って、人生をやり直すお話が、すごく人気なの」
俺は、思わず飲んでいた紅茶にむせた。
「ショウゴくん、大丈夫?」
「……大丈夫」
ミサキは、不思議そうに俺の顔を見た。
「ねえ、ショウゴくん。もし、過去に戻れたら、何がしたい?」
窓の外では、秋の夕日が、東京の街を赤く染めていた。
「……もう、やりたいことは、全部やってる」
「えー、つまんない答え」
ミサキは笑って、俺の肩に頭を乗せた。
「でも、それって、すごく幸せなことだね」
◇
2016年の暮れ。
レイコさんが、月次の報告書を持ってきた。
「総資産、三兆円を超えました」
三年前に一兆円を超えたとき、レイコさんの目は潤んでいた。
今回は、淡々としていた。
「慣れたか」
「慣れてはいけないと、前に言いました」
レイコさんは、報告書を机に置いた。
「でも、少しだけ、慣れてきたかもしれません。……佐伯さんが外さないことに」
現在資産:3,050,000,000,000円
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