第43話 調査官
2014年、六月。
佐伯キャピタルに、国税局の調査が入った。
予告はあった。一か月前に、正式な通知が届いていた。資産が一兆円を超えた投資会社が、一度も大がかりな税務調査を受けないはずがない。
「当然の流れです」
レイコさんは、通知書を読んで言った。
「むしろ、遅すぎたくらいです。準備は、十三年前からできています」
◇
調査の初日。
朝九時ちょうどに、オフィスの受付に、四人の調査官が現れた。
先頭に立っていたのは、三十歳前後の女性だった。
紺のパンツスーツ。後ろで一つに結んだ黒髪。化粧は薄く、表情は硬い。手には、分厚い書類鞄を提げていた。
「東京国税局、調査部の真壁です。本日から、御社の税務調査を担当いたします」
真壁シズカ。
差し出された名刺に、そう書いてあった。
「代表の佐伯です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いいたします」
真壁さんは、俺の顔を一瞬だけ見た。
値踏みするような目だった。いや、値踏みというより、獲物を見定めるような目だった。
◇
調査は、会議室で行われた。
真壁さんは、佐伯キャピタルの過去十年分の帳簿を、全部出すように求めた。取引の記録。契約書。銀行の入出金の明細。社員の給与。経費の領収書。
「全部、ですか」
総務の担当者が、青い顔で聞いた。
「全部です」
真壁さんは、表情一つ変えずに言った。
レイコさんが、静かに立ち上がった。
「承知しました。三十分で、ご用意します」
「……三十分?」
真壁さんの眉が、ぴくりと動いた。
「十年分の帳簿を、三十分で?」
「はい。すべて、年度別、取引別に整理してあります」
三十分後。
会議室の長いテーブルの上に、段ボール箱が三十箱、きれいに並べられた。箱の側面には、年度と内容が、几帳面な字で書かれたラベルが貼ってあった。
それとは別に、一冊の分厚いファイル。
「こちらは、全取引の一覧と、各取引の根拠資料の所在を示した索引です」
レイコさんは、ファイルを真壁さんの前に置いた。
「ご覧になりたい取引があれば、このファイルで番号を確認していただければ、該当する箱と、箱の中の位置がすぐに分かります」
真壁さんは、ファイルを開いた。
一ページ目から、数ページめくった。
その手が、止まった。
「……これは、誰が作ったんですか」
「私です」
「いつから」
「2001年に、合同会社サエキ・アセットを設立したときからです。最初は、宝くじの当選記録から始まっています」
真壁さんは、もう一度ファイルに目を落とした。
それから、小さく息を吐いた。
「……分かりました。拝見します」
◇
調査は、三週間続いた。
真壁さんは、毎朝九時ちょうどに来て、毎晩八時過ぎまで帰らなかった。昼食は、自分で持ってきた弁当を、会議室で一人で食べていた。
社員の誰とも、仕事以外の話はしなかった。
「怖いですね、あの調査官」
若手の社員が、廊下でひそひそ話していた。
「質問がめちゃくちゃ細かいんです。二〇〇七年の、タクシー代の領収書一枚まで、何の用事だったか聞かれました」
「で、答えられたのか」
「桐谷さんの索引に、全部書いてありました。誰と、どこへ、何の打ち合わせで行ったか」
調査官たちは、特に、リーマン・ショックのときの保険の契約と、2013年の円安の取引について、何度も質問を繰り返した。
なぜ、あのタイミングで、あれほど大きな取引ができたのか。
誰かから、事前に情報を得ていたのではないか。
海外の口座に、利益を隠しているのではないか。
そのたびに、レイコさんとアリサが、資料を示して説明した。アリサは、ニューヨークからテレビ会議で参加し、英語の契約書を一枚ずつ読み上げた。
◇
調査の二週目。
昼休みに会議室の前を通りかかると、中から、レイコさんと真壁さんの声が聞こえた。
ドアが、少しだけ開いていた。
「この索引の付け方、どこで覚えたんですか」
真壁さんの声だった。いつもの硬い口調だったが、どこか興味深そうな響きがあった。
「銀行の窓口にいた頃です」
レイコさんが答えた。
「当選金の支払いの記録を、毎日つけていました。誰が、いつ、いくら受け取ったか。最初は、上司に言われてやっていただけでしたが、そのうち、記録をつけること自体が好きになりました」
「……分かります」
真壁さんが、小さく言った。
「私も、帳簿を読むのが好きなんです。数字は、嘘をつかないので」
「嘘をつくのは、数字の並べ方です」
レイコさんが、すかさず言った。
一瞬の沈黙。
それから、真壁さんが、ふっと笑う気配がした。
「……その言葉、メモしてもいいですか」
「どうぞ。十年前に、ある社長に向かって言った言葉です」
二人は、それきり、また黙々と帳簿をめくり始めた。
廊下で立ち聞きしていた俺は、そっとその場を離れた。
◇
調査の最終週。
夜の八時過ぎ。社員がほとんど帰ったオフィスで、俺は自分の部屋で仕事をしていた。
ドアがノックされた。
真壁さんだった。
「少しだけ、よろしいですか。調査とは、関係ない質問ですが」
「どうぞ」
真壁さんは、部屋に入ってきて、立ったまま言った。
「三週間、御社の帳簿をすべて見ました。率直に申し上げます。一円の誤りも、見つかりませんでした」
「……そうですか」
「税金も、すべて正しく納められています。海外の口座も、すべて申告済みでした。脱税の痕跡は、どこにもありません」
真壁さんは、少しだけ視線を落とした。
「私は、九年間、この仕事をしてきました。大きなお金を動かしている会社ほど、どこかに必ず穴があります。この会社には、それがない」
「レイコさんのおかげです」
「ええ。桐谷さんの記録は、私が今まで見た中で、一番正確でした」
真壁さんは、それから、まっすぐ俺の目を見た。
「でも、一つだけ、分からないことがあります」
「何ですか」
「あなたの判断です」
真壁さんの声は、静かだった。
「宝くじの連続当選。ネクストリームの売り抜け。リーマン・ショック。円安。どれも、帳簿の上では、すべて合法です。インサイダーの証拠も、どこにもない」
真壁さんは、一歩、前に出た。
「でも、あなたは、毎回、ほとんど正確に、未来を当てている。それが、どうしても説明できない」
部屋の中に、沈黙が落ちた。
「調査官として、それは追及できません。違法ではないので」
真壁さんは、少しだけ声を落とした。
「ただ、一人の人間として、知りたいんです。あなたは、何者なんですか」
俺は、少し考えてから、答えた。
「……数字を覚えるのが、得意なだけです」
真壁さんは、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、小さく、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
三週間で、初めて見る表情だった。
「ずるい答えですね」
「よく言われます」
「でも、嘘はついていない顔です」
真壁さんは、一礼して、部屋を出ていった。
十三年前、銀座のバーで、レイコさんにまったく同じことを言われたのを、思い出していた。
現在資産:1,500,000,000,000円
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