第41話 一兆円
2013年、十月。
映画『星のない夜の灯台』が、公開された。
公開初日、俺はミサキと二人で、新宿の映画館の一番後ろの席に座っていた。
満席だった。
スクリーンに、宮城の港町が映る。白い灯台。漁船。仮設の商店街。そして、短い黒髪の女の子が、岸壁を走っていく。
二時間後。
最後の場面で、ユイが灯台を見上げて「だから、ここにいる」と言ったとき、劇場のあちこちから、すすり泣く声が聞こえた。
エンドロールが流れ始めても、誰も席を立たなかった。
隣で、ミサキが静かに泣いていた。
「……よかった」
ミサキは、ハンカチを握りしめたまま、小さな声で言った。
「作家さんの小説が、ちゃんと映画になった。この町の人たちが、ちゃんと生きてるって、伝わった」
◇
映画は、ヒットした。
最初は中規模の公開だったが、口コミで評判が広がり、二週目、三週目と、上映館が増えていった。最終的な興行収入は、製作費の五倍を超えた。
佐伯キャピタルが出資した三億円は、十五億円近くになって戻ってきた。
「回収の見込みは、五分五分と言いました」
月次の報告で、レイコさんが少しだけ悔しそうに言った。
「私の分析が、外れました」
「いい方向に外れたんだから、いいだろ」
「外れは外れです。記録しておきます」
レイコさんは、手帳に何かを書き込んだ。それから、少しだけ口元を緩めた。
「……でも、早瀬さんの見る目は、正しかったということですね」
ユイは、この映画で、一躍注目の若手女優になった。年末の映画賞で、新人賞を三つ受賞した。テレビドラマの主演も、次々と決まった。
十一月の終わり。
映画の撮影に協力してくれた宮城の港町で、特別な上映会が開かれた。会場は、町の公民館。スクリーンは、体育館で使う大きな布だった。
ユイは、どんなに忙しくても、この上映会にだけは必ず来ると言っていた。俺も、製作委員会の一員として、隣の席に座った。
公民館は、町の人たちでいっぱいだった。漁師のおじさんたち。炊き出しをしてくれたおばあさんたち。エキストラとして映った子どもたち。
スクリーンに、自分たちの町が映った瞬間、会場がどよめいた。
「あれ、うちの船だ!」
「あっ、ばあちゃんが映ってる!」
子どもたちが、自分の顔を見つけるたびに歓声を上げた。
そして、最後の場面。灯台の下で、ユイが「だから、ここにいる」と言った瞬間。
会場が、しんと静まり返った。
それから、誰かが小さく拍手を始めた。その拍手は、あっという間に会場中に広がった。
上映が終わると、炊き出しのおばあさんが、ユイのところへやってきた。
「ユイちゃん。ありがとうねえ。うちの町、ちゃんと映画になったよ」
おばあさんは、しわだらけの手で、ユイの手を握った。
ユイは、もう泣いていた。スクリーンの中ではこぼさなかった涙が、ぼろぼろとこぼれていた。
「おばあちゃん……私のほうこそ、ありがとう」
帰りの車の中で、ユイは窓の外の灯台の光を、ずっと見ていた。
「佐伯さん。私、女優になってよかった」
「ああ」
「この町の人たちに、ちゃんと届けられた。それが、一番嬉しい」
◇
十二月。
レイコさんが、月次の報告書を持って、俺の部屋に来た。
いつもと、少しだけ様子が違った。報告書を持つ手に、力が入っていた。
「佐伯さん。今日の終値で、確定しました」
「何が」
レイコさんは、報告書を机の上に置いた。
一番上の行に、数字が書いてあった。
総資産:1,012,000,000,000円
一兆、百二十億円。
「……一兆」
「はい。一兆円を、超えました」
レイコさんの声は、いつもどおり淡々としていた。でも、眼鏡の奥の目が、少しだけ潤んでいた。
「宝くじの換金窓口で、佐伯さんに初めて会ったとき、ミニロトの一千万円でした。あれから、十三年。十万倍です」
俺は、報告書の数字を、しばらく黙って見つめていた。
一周目の俺の生涯年収は、だいたい二億円。その、五千倍。
宝くじで一億円が当たったとき、米袋一つ分の重さだと、レイコさんに教わった。
一兆円は、その一万倍。米袋一万個。
もう、想像すらできなかった。
「レイコさん」
「はい」
「ありがとう。ここまで来られたのは、レイコさんのおかげだ」
レイコさんは、眼鏡を外して、目元を指で押さえた。
「……私は、数字を数えていただけです」
「その数字を、十三年、一度も間違えずに数えてくれた」
レイコさんは、しばらく何も言わなかった。
それから、眼鏡をかけ直して、いつもの顔に戻った。
「今夜、お祝いをしましょう。早瀬さんとカオルさんとアリサにも、もう連絡してあります」
「いつの間に」
「今日の終値が出た瞬間に」
◇
その夜。
銀座の月白を、カオルさんが貸し切りにしてくれた。
ミサキ。レイコさん。カオルさん。ニューヨークから飛んできたアリサ。
そして、カウンターの端に、もう一人。
「……はじめまして。一ノ瀬ユイです」
ユイは、帽子を目深にかぶったまま、少し緊張した顔で頭を下げた。
一週間前、ミサキが言い出したのだ。ユイちゃんも呼ぼう、と。
「だって、もう知ってるもん。ショウゴくんとユイちゃんのこと」
ミサキは、平然と言った。
「撮影のとき、あの子、ショウゴくんのことばっかり見てたし。打ち上げの夜、二人で灯台のほうに歩いていくの、見てたよ」
俺は、何も言い返せなかった。
カウンターに、五人の女性が並んだ。
カオルさんが、ユイのために、甘めのシャンパンを注いだ。
「ようこそ。あなたの映画、見たわ。お店のお客さんたちと一緒に。みんな、泣いてたわよ」
「ありがとうございます……」
アリサが、ユイの顔を覗き込んだ。
「あなたが、灯台の子ね。私も、ニューヨークで見たわ。字幕付きで」
「えっ、アメリカでも?」
「小さな映画館だけどね。満席だった」
レイコさんが、ユイに名刺を差し出した。
「桐谷です。出資の分析を担当しました。興行収入、私の予測を大幅に上回りました。素晴らしい演技でした」
「……数字で褒められたの、初めてです」
ユイは、少しだけ笑った。
最後に、ミサキが、ユイの隣に座った。
「ユイちゃん。改めて、よろしくね」
「……早瀬さん。怒って、ないんですか」
ミサキは、少しだけ考えるように首をかしげた。
「最初は、ちょっとだけもやもやしたよ。でもね、ユイちゃんの映画を見て、分かったの。この子は、ショウゴくんの隣にいていい子だって」
ミサキは、ユイの手を取った。
「ただし、一つだけ。一番最初は、私だからね」
ユイは、ミサキの顔を見つめて、それから、大きくうなずいた。
「はい。……早瀬さんが一番で、私は五番目。でも、一番若いです」
カウンターに、笑い声が広がった。
アリサが、グラスを掲げた。
「一番高いのは、私」
「数字で一番なのは、私です」
レイコさんが、すかさず言った。
カオルさんが、優雅に微笑んだ。
「一番大人なのは、私ね」
俺は、カウンターの内側で、また黙ってグラスを拭いていた。
カオルさんに、今夜もそこにいろと言われたのだ。
「一兆円の男が、グラスを拭いてるなんてね」
カオルさんが、くすくすと笑った。
「でも、それくらいがちょうどいいのよ。あなたは」
現在資産:1,012,000,000,000円
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