第04話 換金窓口の女
百万円を手にして、俺が最初にしたこと。
それは、ちゃんとした飯を食うことだった。
駅前の焼肉屋で、上カルビと上タンと特上ロース。一周目の学生時代には、メニューを見るだけで素通りしていた店だ。
「うまっ……」
二十二歳の胃袋は、いくらでも肉を受け入れた。四十八歳のときは、カルビ三枚で胃もたれしていたのに。
若さって、それだけで資産だな。
◇
腹が満たされると、頭が冴えてくる。
アパートに戻り、ノートを広げた。次の作戦会議だ。
ナンバーズ4は確実に当てられる。でも、一回百万円程度。しかも毎回当てていたら、さすがに怪しまれる。
もっと効率のいい獲物が必要だ。
「ミニロト」
1から31までの数字から五つを選ぶくじ。一口二百円で、1等の理論値は約一千万円。
去年始まったばかりで、まだ世間の知名度は低い。売り場で買っている人も、ロト6が始まってからに比べればずっと少ない。
つまり、1等の当選者が出ない回が多い。そういう回の1等の賞金は、誰の手にも渡らずに次の回へ繰り越される。
俺は目を閉じ、記憶の引き出しを開けた。
数字だけじゃない。暗記の途中で、俺は1等の当選口数と金額も一緒に眺めていた。数字の「表情」を覚えるのに、金額の大小は良い手がかりになったからだ。
「1等の当選者が出なかった回……」
ある。今年の五月から夏にかけて、何回か。
ノートに丸をつける。
本来なら、誰も受け取らなかったはずの一千万円。それを俺が受け取っても、誰の当選も奪わない。ルールの二つ目にも反しない。
「一周目の俺なら、こんなこと考えもしなかっただろうな」
社畜二十六年は無駄じゃなかった。リスク管理と根回しだけは、体に染みついている。
◇
五月の第二週。
大学の講義が終わってから、いつもと違う駅で降りた。
下町の商店街の、さらに奥。古い煙草屋の軒先に、宝くじの小さな窓口がくっついていた。座っているのは、白髪のおばあちゃんだった。
「ミニロト、一口」
「はいよ。兄ちゃん、学生さんかい」
「ええ、まあ」
「若いうちから宝くじなんて買うもんじゃないよ。こんなもん、当たらないんだから」
売り手が言うセリフじゃない。思わず笑ってしまった。
「おばあちゃん、ここで1等出たことある?」
「あるわけないさ。四十年座ってて、一番大きいので十万円。それでも商店街じゃ大騒ぎだったよ」
マークシートに五つの数字を塗る。
――ごめん、おばあちゃん。今度はたぶん、もっと大騒ぎになる。
「当たったら、お礼に羊羹でも持ってきな」
「約束します」
――頼む。
抽選は火曜日。
その日の夜、ゼミの飲み会があった。ミサキも来ていた。
「佐伯くん、最近なんか楽しそうだよね」
隣の席で、ミサキがウーロン茶のグラスを傾けながら言った。
「そう?」
「うん。前はもっと、こう……いつも何かに追われてる感じだったのに」
鋭いな、と思った。一周目の俺は、就活と将来の不安にずっと押しつぶされていた。
「将来の心配が、ちょっと減ったからかな」
「なにそれ。内定でも出たの?」
「まあ、そんなとこ」
「いいなあ。私、出版社狙いなんだけど、全然だめ。倍率百倍とかだよ」
ミサキが溜息をつく。
俺は覚えている。この春、ミサキは小さな出版社の文芸編集部に内定をもらう。一周目の俺は、それを人づてに聞いて、おめでとうの一言すら言えなかった。
「大丈夫。早瀬は受かるよ」
「なんで分かるの」
「なんとなく。早瀬が本の話してるときの顔、面接官が見たら一発だと思う」
ミサキはグラスを持ったまま固まり、それから、耳まで赤くなってうつむいた。
「……佐伯くん、やっぱり最近変」
◇
翌朝の新聞。
ミニロトの欄。五つの数字。
全部、一致。
1等、当選口数一口。
当選金額――11,248,600円。
「…………」
今度は声も出なかった。
一千万円。一周目の俺が、どれだけ働いても届かなかった数字。
それが、新聞の片隅に、当たり前みたいに印刷されていた。
◇
一千万円を超える当選金は、売り場では受け取れない。
宝くじの受託銀行の、決められた支店に行く必要がある。身分証明書と印鑑を持って。
都心のビル街にある、大理石の床の支店。学生アパートから電車で四十分。ジーンズにパーカーで来たことを、ロビーに入った瞬間に後悔した。周りはスーツ姿の大人ばかりだ。
「宝くじの当選金の受け取りでしたら、こちらへどうぞ」
案内されたのは、奥の個室だった。
しばらくして、ドアが開く。
「お待たせいたしました。担当の桐谷です」
入ってきたのは、紺の制服を着た若い女性行員だった。
二十代半ば。後ろでまとめた髪。細いフレームの眼鏡。背筋がまっすぐで、所作に一切の無駄がない。
名札には、桐谷レイコとあった。
「ミニロト1等、一口。ご当選、おめでとうございます」
桐谷さんは、券を確認しながら淡々と言った。
「お支払いは、確認が済んでから一週間ほど後になります。お振込先の口座は――」
手際がいい。説明に迷いがない。書類を差し出す角度まで、きっちり揃っている。
そして、彼女の視線が一瞬、俺の学生証で止まった。
「佐伯様は、大学生でいらっしゃいますね」
「はい」
「……失礼ですが、あまり驚いていらっしゃらないように見えます」
思わず、顔を上げた。
桐谷さんは表情を変えずに続けた。
「高額当選された方は、たいてい手が震えていたり、何度も金額を聞き返されたりします。ご家族に電話をされる方も多いです。佐伯様は、ずっと落ち着いていらっしゃるので」
――しまった。
中身が四十八歳だということを、すっかり忘れていた。それに、俺はこの金額を新聞で見る前から知っていた。驚けというほうが無理だ。
「驚きすぎて、逆に実感がないんですよ」
「そうですか」
桐谷さんは小さくうなずき、それ以上は何も聞かなかった。
でも、眼鏡の奥の目が、ほんの少しだけ面白そうに細められたのを、俺は見逃さなかった。
支店を出てから、俺は自分の手のひらを見た。
震えていない。
次からは、少し震えてみせるくらいの演技は必要かもしれない。
ビルの谷間を駅へ歩きながら、俺はさっきの個室を思い出していた。
桐谷レイコ。
一周目の俺は、彼女に会っていない。当たり前だ。一周目の俺は、一千万円の当選券なんて一度も握ったことがないのだから。
つまり彼女は、二周目で初めて出会った人間だ。俺の記憶のどこにもいない。何を考え、どう動くのか、まったく読めない相手。
それが、妙に新鮮だった。
二十六年分の答えを持っている俺にとって、答えの分からない人間に会うのは、久しぶりの感覚だった。
◇
その週末、俺は羊羹を二本買って、下町の煙草屋を訪ねた。
窓口のガラスには、手書きの貼り紙があった。
『祝 ミニロト1等 当店より出ました!』
おばあちゃんは、俺の顔を見るなり窓口から身を乗り出した。
「兄ちゃん、あんたかい!」
「さあ、どうでしょう」
羊羹を差し出すと、おばあちゃんはしわくちゃの顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。
「四十年やってて、こんな日が来るとはねえ」
商店街の真ん中で、俺はおばあちゃんと一緒に笑った。目立たないというルールは、今日だけ少し忘れることにした。
現在資産:12,358,200円
次回、第5話「内定辞退」。
一周目で二十六年勤めた会社に、二周目の主人公が告げる言葉とは。




