第03話 最初の的中
2000年には、スマホがない。
抽選結果を知る方法は、翌朝の新聞か、売り場の掲示か、携帯の小さな画面でのろのろ読み込むネットくらいだ。
抽選日の昼間は、まるで仕事にならなかった。
講義に出ても、教授の声が一つも頭に入ってこない。ノートには、ナンバーズ3の三つの数字ばかりが何十回も書かれていた。
「佐伯くん、それ何の数字?」
隣の席のミサキが、ノートを覗き込んできた。
「……暗号。解けたら教えるよ」
「なにそれ。佐伯くん、最近ちょっと変だよ」
ミサキは笑って、自分のノートに戻った。変なのは自覚している。でも、それどころじゃなかった。
夕方になると、俺は待ちきれず、売り場が閉まる直前に駆け込んだ。
「すみません、これ、当たってるか見てもらえますか」
券を差し出す。昨日と同じ姉さんが、照合機に通した。
ピー、と機械が鳴った。
「あ……」
姉さんの目が大きくなる。
「おめでとうございます! ナンバーズ3、ストレート当選です!」
心臓が、どくんと跳ねた。
「金額は、九万八千四百円ですね。五万円を超えるので、銀行での換金になります」
九万八千四百円。
二百円が、四百九十二倍。
「……ありがとうございます」
平静を装って券を受け取る。売り場を離れて角を曲がった瞬間、俺は電柱に額を押しつけて、声を殺して笑った。
当たった。
本当に、当たった。
世界は同じだ。俺の記憶は、本物の未来だ。
いや、待て。たった一回だ。偶然という可能性もゼロじゃない。
アパートに戻る途中、コンビニで夕刊を買った。スポーツ面を広げる。
プロ野球の結果。俺は細かい試合結果までは覚えていない。でも、この年の春に、ある球団の若手投手が初登板で完封した――そんな見出しを、どこかで見た記憶があった。
あった。
小さな記事だった。それでも、俺の記憶とぴったり重なっていた。
テレビをつければ、来月行われる選挙の話題。その結果も、俺は知っている。駅前のビルに入っている消費者金融が、数年後に業務停止になることも。
宝くじの数字だけじゃない。この世界は、俺がいた世界と同じ線路の上を走っている。
「……よし」
ちゃぶ台の上で、拳を握った。
◇
翌朝、銀行で換金した。
窓口の行員はベテランの男性で、慣れた手つきで手続きを済ませてくれた。ナンバーズ3のストレート程度では、誰も驚かないらしい。
封筒に入った九万八千四百円。手持ちと合わせて、およそ十四万八千円。
銀行を出て、近くの公園のベンチに座った。
封筒の厚みを、指で何度も確かめる。四十八歳の課長なら、十万円で手が震えることはない。でも、これは給料じゃない。誰かに頭を下げて手に入れた金じゃない。
俺の記憶が、生んだ金だ。
「……さて」
ノートを開いて、ペンを走らせた。浮かれる前に、決めておくことがある。
一つ。目立たない。
二つ。他人の当選を奪わない。
三つ。記録を残す。いつ、何を、いくら買って、いくら当てたか。
一つ目は、一周目の会社員生活で骨身にしみた教訓だ。出る杭は打たれる。打たれないためには、出る前に十分な高さまで伸びておくこと。
二つ目は、俺なりのけじめだった。俺が当てた分だけ、本来当たるはずだった誰かが外れるなら、それはただの横取りだ。狙うのは、本来なら誰も当たらなかった回か、分け合っても誰も損をしない回。
三つ目は――いつか、この記憶が通用しなくなる日が来たときのためだ。
なぜそう思ったのかは、自分でもよく分からない。ただ、二十六年分の会社員の勘が、うまくいきすぎている話には必ず落とし穴がある、と小さく警告していた。
「よし。次は、ナンバーズ4だ」
◇
迷いはなかった。
ナンバーズ4のストレート、一口。
二口、三口と買えば儲けは増える――と一瞬考えて、やめた。ナンバーズは当選者で賞金を分け合う仕組みだ。俺が口数を増やせば一口あたりの賞金が薄まるうえ、同じ番号の大量当選は記録に残る。ルールの一つ目に反する。
今度は、大学から三駅離れた売り場を選んだ。同じ店で当て続けるのは、もう少し後でいい。
マークシートに四つの数字を塗る。今度は、指は震えなかった。
◇
抽選日。
今度は売り場には行かなかった。新聞を待つことにした。
その夜は、ほとんど眠れなかった。目を閉じると、四つの数字が瞼の裏を行ったり来たりする。三時を過ぎたころにようやくうとうとして、五時半には目が覚めた。
朝六時。アパートの郵便受けがことりと鳴る。
新聞を広げる。経済面、社会面、テレビ欄の手前。小さな数字の欄。
指でなぞる。
一つ目、合っている。
二つ目、合っている。
三つ目。
四つ目。
「――――っし!」
拳を握り、畳の上で声を出さずにガッツポーズをした。
ナンバーズ4、ストレート。
当選金額の欄には、こう書いてあった。
1,032,600円
二百円が、百万円になった。
一周目の俺が、二十六年かけて貯めた貯金の、四分の一以上。
それを、たった二百円と、一枚の紙切れで。
「……これが、始まりだ」
朝日が差し込む六畳間で、新聞を抱えたまま、しばらく動けなかった。
◇
百万円の換金は、さすがに少し緊張した。
窓口で券を出すと、行員の女性が一瞬だけ目を見開き、それから「少々お待ちください」と奥へ消えた。戻ってきたときには、上司らしい男性が一緒だった。
身分証の確認。住所と名前の記入。振込先の口座番号。
一つ一つの手続きが、やけに長く感じられた。
「大学生さんですか。いいですねえ、この金額は」
上司の男性が、柔らかく笑った。
「卒業旅行の資金になりますね」
「ええ、まあ。大事に使います」
本当は、旅行なんかに使うつもりはなかった。
この百万円は、種だ。蒔いて、育てて、増やすための。
銀行を出ると、四月の空が高かった。通帳に印字された七桁の数字を、俺は駅のホームで三回見直した。
見直すたびに、口元がゆるんだ。
◇
その夜、アパートの六畳間で、俺はノートに最初の記録をつけた。
――四月、ナンバーズ3、一口、二百円。当選、九万八千四百円。
――四月、ナンバーズ4、一口、二百円。当選、百三万二千六百円。
たった二行。でも、この二行を書くために、俺は一度死んだのだ。
ペンを置いて、窓の外を見る。向かいのアパートの窓から、テレビの笑い声が漏れてくる。誰かが電話で話している声。遠くの踏切の音。
一周目の俺も、この部屋で同じ音を聞いていたはずだ。就職のこと、金のこと、将来のこと。何もかもが不安で、何もかもが重かった。
今は、違う音に聞こえる。
ノートの次のページに、大きく書いた。
――次の獲物、ミニロト。
百万円は種だ。でも、種のまま眺めていても芽は出ない。
蒔く場所は、もう決めてある。
「……楽しくなってきたな」
二十二歳の声で、四十八歳の俺がつぶやいた。
現在資産:1,180,800円
二百円が、百万円に。
次回、第4話「換金窓口の女」。
狙うはミニロト、一千万円。そして、ある女性との出会いが待っています。




