第02話 知ってる天井
気がつくと、天井があった。
「……知らない天井だ」
言ってみてから、いや、と思い直す。
知っている。この木目。右上の雨漏りの染み。蛍光灯から垂れた、引っ張るタイプの紐。
「大学のときのアパート……?」
がばっと体を起こした。軽い。体がやたらと軽い。腰も膝も痛くない。
六畳一間。ブラウン管のテレビ。床に積まれた漫画雑誌。壁には就活用のスーツがぶら下がっている。
枕元に、折りたたみ式の携帯電話があった。小さな液晶。アンテナを伸ばすタイプのやつだ。
画面を開く。
2000/04/03(月)07:42
「にせん、ねん」
声が裏返った。
◇
洗面所の鏡に、若い男が映っていた。
髪はふさふさ。目の下のクマもない。頬がこけてもいない。
二十二歳の、佐伯ショウゴだった。
「……マジかよ」
頬をつねる。痛い。もう一度つねる。やっぱり痛い。
テレビをつけると、ニュースキャスターが首相が倒れたと深刻な顔で伝えていた。覚えている。確か、二十六年前の春にそんな騒ぎがあった。
間違いない。
俺は、戻ってきたんだ。
◇
落ち着け。
四十八年生きた大人として、まず状況を整理しろ。
畳の上にあぐらをかき、深呼吸する。
一つ。今は2000年4月3日。俺は大学四年になったばかり。
二つ。俺は死んだ。たぶん。そして、どういう理屈か過去に戻った。
三つ。――これが一番大事だ。
目を閉じる。
頭の中に、数字が流れ出した。
ロト6第1回。第2回。第3回。ミニロト。ナンバーズ。二十六年分、半年かけて叩き込んだ数字の列が、何一つ欠けずにそこにあった。
「……はは」
笑いがこみ上げてくる。
「ははははっ!」
隣の部屋から壁をどんと叩かれた。すみません。
でも、止まらなかった。
覚えていた。全部、覚えていた。
死ぬ前の俺が、深夜テンションで始めた、何の役にも立たないはずの趣味。会社の飲み会で場を凍らせた、あの趣味。
それが今、世界でただ一人、俺だけが持っている最強の武器になった。
◇
財布を開く。千円札が三枚と、小銭が少し。
通帳を探し出して開く。残高、四万七千二百円。仕送りとバイト代の残りだ。
合わせて、ちょうど五万円くらい。
「全財産、五万円か」
二十六年後の俺には、三百八十万の貯金があった。社畜を二十六年やって、たったそれだけ。
でも今は、五万円の方がずっと価値がある。
なぜなら――。
「来週の数字、俺は知ってる」
窓を開けた。四月の朝の空気は、驚くほど澄んでいた。
◇
浮かれるのは、一回当ててからにしよう。
四十八年生きた俺の、それが最初の結論だった。
問題は二つある。
一つ目。この世界が、本当に俺の知っている過去と同じなのか。
タイムリープものの小説には、よく「微妙に違う並行世界でした」というオチがある。もしそうなら、俺の記憶はただの数字の羅列だ。
二つ目。何から当てるか。
ロト6が始まるのは、今年の十月。まだ半年先だ。ミニロトはもう始まっている。ナンバーズはずっと前からある。
「まずは、小さく試す」
ちゃぶ台の上で、大学ノートを開いた。
2000年4月。ナンバーズの当選番号。
――出てくる。今週分も、来週分も。
ナンバーズ3は三桁の数字を当てるくじだ。並びまで完全一致させる「ストレート」なら、一口二百円が約十万円になる。ナンバーズ4は四桁。ストレートなら約百万円。
「試すならナンバーズ3、一口だけ」
二百円なら、外れても痛くない。当たれば、世界が同じだと証明できる。
◇
アパートを出ると、街の景色に何度も足が止まった。
駅前のレンタルビデオ店。公衆電話に並ぶ人。誰もスマホを見ていない。電車の中では、みんな新聞か文庫本を広げている。
――そうだった。この頃は、こんな感じだった。
二十六年後には跡形もなく消える景色を、俺は一つずつ目に焼きつけながら歩いた。
大学の最寄り駅の前に、小さな宝くじ売り場があった。
二十六年後、俺が初めてロト7を買ったのとそっくりなブース。違うのは、中にいるのが若い姉さんだということくらいだ。
「ナンバーズ3、ストレートで一口」
マークシートに、覚えている三つの数字を塗る。
指が震えた。ペンの先がずれて、一度書き直した。
「はい、二百円です。当たるといいですね」
「……ええ。当たると思います」
姉さんがきょとんとした顔をした。
◇
売り場を離れて、キャンパスへ向かう坂道を上る。
そのとき、後ろから声がした。
「あれ、佐伯くん?」
振り向いて、息が止まった。
肩までの黒髪。白いカーディガン。少しタレ目の、穏やかな笑顔。
早瀬ミサキ。
同じゼミの同級生で――一周目の俺が、四年間ずっと好きで、とうとう一言も告白できなかった相手。
走馬灯の中に出てきた横顔が、今、目の前で笑っていた。
「どうしたの、そんな顔して。幽霊でも見た?」
「……いや。久しぶりだなって」
「春休み挟んだだけじゃない。変なの」
ミサキがくすくす笑う。
一周目の俺は、この笑顔を前にすると何も言えなくなった。顔が赤くなって、目をそらして、それで終わり。
でも、今の俺の中身は四十八歳だ。
「早瀬、髪切った? 似合ってる」
するりと言葉が出た。
ミサキの目が丸くなる。それから、ほんのり頬が赤くなった。
「え、あ……ありがと。佐伯くんって、そういうこと言う人だっけ」
「春休みで、ちょっと大人になったんだよ」
本当は二十六年分だけどな。
並んで坂を上りながら、ミサキは春休みに読んだ本の話をしてくれた。一周目の俺は、この話をちゃんと聞いた記憶がない。緊張して、相づちを打つので精一杯だった。
今は、全部聞こえる。声の高さも、笑うときに少し首をかしげる癖も。
「佐伯くん、今日なんか楽しそう」
「うん。いいことがありそうな気がしてさ」
◇
ゼミ室には、懐かしい顔がそろっていた。
「佐伯、エントリーシート何社出した? 俺もう三十社だぜ」
同期の村井が、リクルートスーツ姿で胸を張る。机の上には、分厚い就職情報誌が積まれていた。
「これからはITだよ、IT。ネット企業の株、今すげえ上がってるって親父が言ってた。俺もそっち系受けまくってる」
周りのみんながうなずく。2000年の春。ネット関連の株が、天井知らずに値を上げていた時期だ。
俺は知っている。この熱狂は、もうすぐ弾ける。今年のうちに株価は崩れ、来年には多くのネット企業が姿を消す。村井が受けている会社のいくつかも、三年後には名前すら残っていない。
「……村井。ネット企業受けるなら、会社の中身ちゃんと見とけよ。儲かってるかどうか」
「なんだよ急に、親父みたいなこと言って」
「親父みたいな歳なんだよ、中身は」
「は?」
村井は首をかしげて、それから笑った。俺も笑った。
一周目の俺は、この部屋で、ただ不安に押しつぶされていた。どこに受かるのか、どこにも受からないのか。将来が真っ暗に見えていた。
今は違う。
俺には、誰も知らない二十六年分の答えがある。
◇
その夜。
俺は布団の中で、何度も携帯を開いては閉じた。
抽選結果は、明日の夜に出る。
当たっていれば、世界は同じだ。俺の記憶は使える。
外れていれば――そのときは、普通に就活を頑張るしかない。
「頼むぞ、過去の俺」
暗い天井に向かって、つぶやいた。
現在資産:50,210円
次回、第3話「最初の的中」。
二百円のナンバーズは、本当に当たるのか――。




