第39話 一ノ瀬ユイ
2012年、四月。
映画『星のない夜の灯台』の撮影が、宮城の小さな港町で始まった。
一年前、俺がトラックで物資を届けた町から、少し北に行った場所だった。港の岸壁はまだ一部が崩れたままで、町のあちこちに、仮設の商店街や仮設住宅が並んでいた。
それでも、港には漁船が戻り始めていた。
撮影の初日。俺は、製作委員会の一員として、ミサキと一緒に現場を見学に行った。
「わあ……」
港の高台から見下ろす海は、春の光を受けて、きらきらと輝いていた。
岸壁の先端に、小さな白い灯台が立っていた。津波を受けて傷だらけになりながらも、倒れずに残った灯台だった。
「この灯台、映画の象徴になるんだって」
ミサキが、眩しそうに目を細めた。
「作家さんが、去年の夏にここに来て、この灯台を見て泣いたの。それで、映画の舞台はここしかないって」
◇
撮影は、地元の人たちの協力で進んでいた。
漁師の人たちが、本物の漁船を貸してくれた。仮設住宅のおばあさんたちが、ロケ隊のために炊き出しをしてくれた。町の子どもたちが、エキストラとして参加していた。
その中心に、ユイがいた。
黒髪を短く切りそろえ、漁師町の娘らしい、色あせたジャンパーを着ていた。カメラが回っていないときも、ユイは地元のおばあさんたちと方言で話し、子どもたちと一緒に岸壁を走り回っていた。
「ユイちゃん、あんた、ほんとに役者さんかい。うちの孫みたいだねえ」
炊き出しのおばあさんが、ユイの頭を撫でた。
「おばあちゃん、私、岩手の海の子だもん。こっちとほとんど一緒だよ」
ユイは、おにぎりを頬張りながら笑った。
◇
昼休み。
撮影の合間に、ユイが俺のところへやってきた。
「佐伯さん。来てくれたんですね」
「製作委員会だからな」
「……オーディションのとき、言いましたよね。結果が出たら、ご挨拶させてくださいって」
ユイは、少しだけ姿勢を正して、頭を下げた。
「ありがとうございました。この映画に出られて、本当によかったです」
「選んだのは、監督だよ」
「でも、お金を出してくれたのは、佐伯さんでしょう。早瀬さんから聞きました。出資が一度なくなりかけたって」
ユイは、港の灯台を見た。
「この映画がなかったら、私、この町に来られなかった。私の町に似た、この町に」
風が、ユイの短い髪を揺らした。
「私の町の灯台は、流されちゃったんです。子どもの頃、毎日見てた灯台。だから、ここの灯台を見たとき、泣きそうになりました」
ユイは、少しだけ鼻をすすった。それから、照れくさそうに笑った。
「すみません。撮影中なのに、こんな話」
「いいよ。いい話を聞けた」
◇
撮影は、二か月続いた。
俺は、仕事の合間を縫って、三回、現場を訪ねた。
二回目のとき、ユイは岸壁で一人、台本を読んでいた。
「明日、一番大事な場面なんです」
ユイは、台本から顔を上げた。
「祖父に、この町に残るって告げる場面。オーディションでやった場面です」
「緊張してるのか」
「……少し」
ユイは、台本を膝の上に置いた。
「佐伯さん。一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「佐伯さんって、何かを知ってる人の目をしてますよね」
心臓が、どきりと鳴った。
この台詞を、俺は何人もの女性から聞いてきた。カオルさんから。アリサから。
「……よく言われる」
「やっぱり」
ユイは、くすりと笑った。
「役者って、人の目を見るのが仕事なんです。この人は嘘をついてる、この人は悲しんでる、この人は何かを隠してる。佐伯さんの目は、何かを知ってて、それでも、悲しいことも嬉しいことも全部受け止めようとしてる目」
ユイは、海を見た。
「去年、私の町が流されたとき、佐伯さんの会社がトラックで物資を送ってくれたって、後で知りました。私の実家の避難所にも、届いてたんです。毛布と、発電機」
俺は、何も言えなかった。
「私、ずっとお礼を言いたかったんです。でも、オーディションのときは、言えなかった。役をもらうために言ってるみたいで、嫌だったから」
ユイは、立ち上がって、俺の正面に立った。
「ありがとうございました。……それと」
ユイは、まっすぐ俺の目を見た。
「撮影が終わったら、一度、二人でご飯に行ってくれませんか」
――来るもの、拒まず。
俺は、うなずいた。
◇
翌日。
一番大事な場面の撮影を、俺はミサキと並んで、カメラの後ろから見ていた。
港の岸壁。夕暮れ。祖父役のベテラン俳優と、ユイが向かい合っていた。
「よーい、スタート」
監督の声が響いた。
ユイは、海を背にして立っていた。祖父が、東京の親戚のところへ行けと言う。この町には、もう何もない、と。
ユイは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと振り返って、白い灯台を見上げた。
「じいちゃん。私、この町の灯台が好きなんだ」
声が、震えていた。目に、涙が溜まっていた。オーディションのときと同じだ。でも、こぼれない。
「だから、ここにいる」
ユイは、泣きそうな顔のまま、笑った。
現場が、静まり返った。
監督が、しばらく何も言わなかった。それから、かすれた声で言った。
「……カット。オーケー」
周りのスタッフが、誰からともなく拍手を始めた。エキストラの子どもたちも、炊き出しのおばあさんたちも、手を叩いていた。
隣で、ミサキがハンカチで目元を押さえていた。
「……ずるいよ、あの子」
ミサキは、鼻声でつぶやいた。
「作家さんの原稿で、私、あの台詞を百回くらい読んだの。でも、今のが一番だった」
「ミサキが見つけた子だよ」
「私じゃないよ。見つけたのは、監督」
ミサキは、ハンカチをしまって、少しだけ笑った。
「でも、あの子がいい子だってことは、私も分かる。……ショウゴくん、気をつけてね」
「何を」
「あの子、ショウゴくんのこと、すごく見てるから」
ミサキは、いたずらっぽく俺の顔を覗き込んだ。
「一番最初は、私だからね」
◇
六月の終わり。
撮影が、終わった。
最後の場面を撮り終えると、現場にいた全員が、拍手をした。漁師の人たちも、炊き出しのおばあさんたちも、エキストラの子どもたちも。
ユイは、監督に花束を渡されて、声を上げて泣いていた。
その夜、町の公民館で、打ち上げが開かれた。地元の人たちが、新鮮な魚をたくさん持ってきてくれた。
打ち上げの途中、ユイが、そっと俺の袖を引いた。
「約束、覚えてますか」
「ああ」
「東京に戻ったら、連絡します。……その前に、ちょっとだけ、灯台まで歩きませんか」
夜の港は、静かだった。
白い灯台が、暗い海に向かって、規則正しく光を投げかけていた。
灯台の下で、ユイは立ち止まった。
「私、この光を、ずっと覚えておきます」
ユイの声は、少しだけ震えていた。
「どんなに有名になっても、どんなに忙しくなっても。この光と、佐伯さんのこと」
灯台の光が、ユイの横顔を、一瞬だけ照らした。
現在資産:600,000,000,000円
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