第38話 映画
2011年、秋。
ミサキから、珍しく仕事の相談を受けた。
「ショウゴくん。映画って、お金出せる?」
日曜日の昼下がり。マンションのリビングで、ミサキは一冊の文庫本をテーブルに置いた。
『星のない夜の灯台』
ミサキが新人時代から担当してきた作家の、三作目の小説だった。東北の小さな港町を舞台にした、家族の再生の物語。去年出版されて、静かに版を重ねていた。
「この本ね、映画化の話が決まりかけてたの。でも、震災のあと、出資してた会社の一つが手を引いちゃって」
ミサキは、文庫本の表紙を指でなぞった。
「舞台が東北の港町だから、今撮るのは難しいって。でも、監督も、作家さんも、今だからこそ撮りたいって言ってる。港町の人たちが、元気に生きてる姿を」
「足りない金額は」
「……三億円」
ミサキは、申し訳なさそうに言った。
「ごめん、ショウゴくんに頼むのは、筋が違うって分かってる。でも、他に頼れる人がいなくて」
俺は、文庫本を手に取って、ページをめくった。
冒頭の数行を読んだだけで、ミサキがこの本をどれだけ大事にしているか、分かった。
「レイコさんに、相談してみる」
「本当に?」
「ただし、うちは数字で決める。映画が、ちゃんと回収できる見込みがあるかどうか。見込みがなければ、出せない」
「……うん。それでいい」
ミサキは、少しだけ不安そうに、でも嬉しそうにうなずいた。
◇
翌週。
レイコさんは、映画の企画書と予算表を、三日かけて分析した。
「結論から言います」
丸テーブルで、レイコさんは眼鏡を押し上げた。
「回収の見込みは、五分五分です。原作の売れ行き、監督の過去作の興行成績、同じ規模の邦画の平均。どれを見ても、大当たりはしません。でも、大外れもしない」
「出すべきか」
「数字だけで言えば、どちらでもいいです」
レイコさんは、企画書の最後のページを開いた。
「ただ、一つだけ、数字にならない要素があります。この映画の撮影は、被災した港町で行われます。地元の人たちが、エキストラとして参加する予定です。撮影の期間中、町には、ロケ隊の宿泊費や食費が落ちます」
レイコさんは、少しだけ表情を和らげた。
「三月に、佐伯さんは、正しいことと儲かることが両方取れるときは両方取る、と言いました。これは、その『両方』に、ぎりぎり入ると思います」
「……レイコさんが、そう言うなら」
「それと」
レイコさんは、企画書を閉じた。
「早瀬さんが、編集者として十年近く大事にしてきた作家の作品です。私は、早瀬さんの見る目を信用しています。重版の記録は、数字として残っていますから」
◇
出資は、決まった。
佐伯キャピタルは、映画の製作委員会に、三億円で参加した。
その知らせを伝えると、ミサキは電話の向こうで、しばらく言葉にならなかった。
『……ありがとう。作家さんにも、監督にも、すぐに伝える』
それから、ミサキは少しだけ声をひそめた。
『それとね、桐谷さんにもお礼言わなきゃ。分析、桐谷さんがしてくれたんでしょ』
「よく分かったな」
『分かるよ。ショウゴくん一人だったら、たぶん二つ返事で出してたもん。三日も待たされたのは、桐谷さんが数字を見てくれてたからでしょ』
図星だった。
その夜、ミサキはレイコさんに電話をかけたらしい。翌朝、オフィスに行くと、レイコさんの机の上に、小さな花束が置いてあった。
「早瀬さんから、届きました」
レイコさんは、花束から目をそらしながら言った。
「お礼は不要だと言ったのですが」
「嬉しそうな顔してるけど」
「していません」
レイコさんは、そう言いながら、花束を丁寧に花瓶に挿した。窓際の、観葉植物の隣に。六本木の雑居ビルの頃から、レイコさんの机の窓際には、いつも何か緑が置いてある。
カオルさんにも、話を伝えた。
「映画ね。素敵じゃない」
小料理屋のカウンターで、カオルさんは目を細めた。
「お店のお客さんにも、映画会社の偉い人が何人かいるわ。公開のとき、宣伝の力になってくれるよう、それとなく頼んでおくわね」
「……カオルさんの情報網、映画まで届くんですか」
「銀座には、何でもあるのよ」
数日後、ミサキからまた電話がかかってきた。今度は、声が弾んでいた。
『ねえ、ショウゴくん。来月、主演の女の子のオーディションがあるの。製作委員会の人も見学できるって。一緒に行かない?』
◇
十一月。
東京の小さなスタジオで、主演女優のオーディションが行われた。
物語の主人公は、港町で漁師の祖父と暮らす、二十歳の女の子。震災で家族を失いかけ、それでも町に残ることを選ぶ役だった。
候補者は、二十人。
有名な事務所に所属する若手女優もいれば、まだほとんど名前の知られていない新人もいた。
俺は、ミサキと並んで、スタジオの後ろの席に座っていた。
十八人目までは、正直、違いがよく分からなかった。みんな上手で、みんなきれいだった。
十九人目の女の子が、スタジオに入ってきた。
黒髪を、短く切りそろえていた。化粧は、ほとんどしていない。ジーンズに、白いシャツ。他の候補者に比べて、驚くほど地味だった。
「一ノ瀬ユイです。二十二歳です。よろしくお願いします」
その声を聞いた瞬間、スタジオの空気が変わった。
台本の一場面を、ユイは演じた。祖父に向かって、町に残ると告げる場面。
ユイの目に、涙がにじんだ。でも、こぼれなかった。泣きそうな顔のまま、ユイは笑った。
「じいちゃん。私、この町の灯台が好きなんだ。だから、ここにいる」
スタジオが、静まり返った。
隣で、ミサキが小さく息を呑んだ。
「……この子だ」
ミサキが、俺にだけ聞こえる声でつぶやいた。
「作家さんが書いた主人公、この子だよ」
◇
オーディションが終わったあと、スタジオの廊下で、ユイとすれ違った。
ユイは、俺の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「製作委員会の方ですよね。後ろの席に座ってた」
「佐伯です」
「佐伯さん。……あの、投資家の?」
「そうです」
ユイは、少し驚いたような顔をした。それから、まっすぐ俺の目を見た。
「私、岩手の出身なんです。海辺の、小さな町」
心臓が、どきりと鳴った。
「今年の春、実家が流されました。家族は、みんな無事でした。でも、町は、まだ半分くらい瓦礫のままです」
ユイは、手に持った台本を、ぎゅっと握りしめた。
「この映画、絶対に出たいんです。私の町の人たちに、見せたいから」
「……さっきの芝居、すごく良かった」
「本当ですか」
「ああ。隣に座ってた人が、作家さんが書いた主人公はこの子だって言ってた」
ユイの目が、大きく見開かれた。
それから、ユイは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。結果が出たら、またご挨拶させてください」
ユイは、廊下の奥へ早足で去っていった。
一週間後。
主演に、一ノ瀬ユイが決まったという知らせが届いた。
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