第37話 三月十一日
2011年、一月。
正月に実家へ帰ったとき、俺は父の古いアルバムを眺めていた。
その中に、若い頃の父が、東北の海辺の町で撮った写真があった。職場の同僚と、漁港で笑っている写真だった。
「懐かしいな。若い頃、仕事で二年いたんだ。いい町だったよ」
父は、写真を指でなぞりながら言った。
俺は、その写真から目を離せなかった。
一周目の記憶が、静かに、重くよみがえっていた。
――2011年、三月十一日。
◇
二月。
丸の内のオフィスで、俺はレイコさんとアリサを会議室に呼んだ。
「これから話すことは、説明できない。根拠も、言えない」
二人の顔を、順番に見た。
「三月の中旬までに、東北の太平洋側で、大きな地震が来る。津波も来る。たぶん、この国で何十年も起きなかった規模の」
会議室が、静まり返った。
レイコさんが、ゆっくりと口を開いた。
「……それも、勘ですか」
「勘だ。でも、外れてほしいと、本気で思ってる」
アリサは、何も言わなかった。ただ、青い目でじっと俺を見ていた。二年半前の秋、世界が燃えると言ったときと、同じ目だった。
「俺たちにできることは、限られてる。でも、何もしないのは嫌なんだ」
俺は、用意してきた紙をテーブルに置いた。
一つ。被災地に送るための、水、食料、毛布、発電機。それを、東北に近い倉庫に、今のうちに大量に確保しておく。
二つ。寄付のための基金を、すぐに動かせる形で準備しておく。
三つ。その週、佐伯キャピタルは、地震に関係する銘柄で、利益を得るための取引を一切しない。
レイコさんが、三つ目の項目を指さした。
「……地震が来ると分かっていれば、大きな利益を出す方法は、いくらでもあります」
「分かってる」
「それを、しないんですね」
「しない」
俺は、はっきりと言った。
「人の不幸を前もって知ってて、それで稼ぐのは、俺のやり方じゃない。それをやったら、宝くじの番号を盗み見て当てるのと変わらない」
レイコさんは、しばらく黙って俺の顔を見ていた。
それから、手帳を開いて、静かに書き込んだ。
「……承知しました。規定に、追記します」
アリサが、小さく息を吐いた。
「あなたって、本当に、正しいことと儲かることを分けて考えるのね」
「両方取れるときは、両方取る。でも、片方しか取れないときは、正しいほうを取る」
◇
警告も、試みた。
匿名で、いくつかの役所や報道機関に手紙を送った。根拠も書けない、ただの予言のような手紙だ。当然、まともに取り合ってはもらえなかった。
東北に住んでいる、数少ない知り合いには、電話をかけた。三月の中旬は、念のため、海から離れた場所にいてほしい。理由は、うまく言えないけれど。
ほとんどの人は、困ったように笑った。
一人だけ、村井の親戚で、宮城の沿岸の町で旅館をやっている女将さんが、真剣に聞いてくれた。
『村井くんの友達の、あの投資家さんでしょう。不思議な勘が当たる人だって、村井くんが言ってたわ。……分かりました。その頃は、高台の親戚の家にいることにします』
電話を切ったあと、俺は受話器を握ったまま、しばらく動けなかった。
全部は、止められない。
それでも。
◇
三月十一日。金曜日。午後二時四十六分。
丸の内のオフィスの二十二階が、大きく揺れた。
長い揺れだった。机の上の書類が、床に散らばった。窓の外のビル群が、ゆっくりと揺れているのが見えた。
社員たちが、机の下にもぐった。
揺れが収まると、俺はすぐに立ち上がった。
「全員、無事か」
「無事です」
レイコさんの声が、少しだけ震えていた。
テレビをつけた。
画面に映ったのは、東北の海岸線だった。
それから先の映像を、ここに書くことはできない。
一周目の俺も、同じ映像を、会社のテレビで見た。そのときの俺は、ただ呆然と画面を見ていただけだった。
今の俺は、知っていた。知っていて、ほとんど何も止められなかった。
◇
その夜から、俺たちは動いた。
二月に確保しておいた倉庫の物資を、トラックで東北へ送り出した。道路が寸断されている場所には、自衛隊や自治体と連絡を取り、届けられるところから届けた。
基金から、百億円を寄付した。続けて、さらに百億円。
社員たちは、誰に言われるでもなく、週末も休まずにオフィスに来て、物資の手配を手伝った。
その週、佐伯キャピタルは、一件の取引もしなかった。
株価は大きく下がり、円は急騰した。市場は、混乱の中にあった。その混乱の中で、利益を出した投資家もいたらしい。
俺たちは、ただ、物資のトラックの手配をし続けた。
◇
四月の初め。
俺は、物資を積んだトラックに同乗して、宮城の沿岸の町に入った。
自分の目で、見ておかなければならないと思った。
避難所になっている小学校の体育館に、毛布と発電機を届けた。体育館の中には、段ボールで区切られた小さな空間が、床いっぱいに並んでいた。
物資を下ろしていると、一人のおばあさんが近づいてきた。
「東京の方ですか。遠いところから、ありがとうございます」
おばあさんは、深々と頭を下げた。
俺は、何と答えていいか分からなかった。
知っていた。何か月も前から。それなのに、この人たちの家を守ることは、できなかった。
「……遅くなって、すみません」
それしか、言えなかった。
おばあさんは、不思議そうな顔をした。それから、しわだらけの手で、俺の手を握った。
「遅くなんか、ないですよ。来てくれただけで、ありがたいの」
その手は、小さくて、温かかった。
帰りのトラックの中で、俺は窓の外の景色を、ずっと黙って見ていた。
隣の運転手は、何も聞かなかった。
ただ、途中のサービスエリアで、黙って温かい缶コーヒーを一本、渡してくれた。
◇
三週間後。
村井から、電話がかかってきた。
『佐伯。宮城の叔母さん、無事だった。旅館は、津波で一階が全部やられたけど、叔母さんは高台にいて、助かった』
村井の声は、涙で震えていた。
『叔母さんが、お前に伝えてくれって。あの電話がなかったら、私はたぶん、旅館に残ってたって』
「……そうか」
それしか、言えなかった。
助けられたのは、一人だった。
『佐伯。お前、本当に何者なんだよ』
「……ただの、少しだけ先のことを知ってる男だよ」
電話を切ったあと、俺は窓の外を見た。
計画停電で、丸の内のビル群の明かりは、いつもより少しだけ暗かった。
その夜、ミサキと、レイコさんと、カオルさんと、ニューヨークのアリサから、ほとんど同時にメールが届いた。
文面は、全員、ほとんど同じだった。
――一人で、抱え込まないで。
俺は、四通のメールを、一通ずつ、ゆっくりと読み返した。
一周目の俺の携帯に、こんなメールが届いたことは、一度もなかった。
四人に、短く返信した。
――ありがとう。明日、話を聞いてほしい。
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