第36話 電子の通貨
本日より第4部スタートです!
2010年代の十年間を一気に駆け抜けます。
資産は、いよいよ「兆」の桁へ。
2010年、五月。
日曜日の夜、俺はマンションの書斎で、パソコンの画面を眺めていた。
英語の、地味な掲示板。プログラマーや暗号の研究者たちが集まって、難しい話をしている場所だ。
その中に、一つの話題があった。
――インターネット上で、銀行を通さずに、個人同士で直接やり取りできる「通貨」。
数年前に、正体不明の誰かが論文を発表して、仕組みを作った。それを面白がった技術者たちが、自分のパソコンで「採掘」と呼ばれる計算をして、少しずつその通貨を生み出している。
掲示板の書き込みでは、ある男が、自分の持っているその通貨一万枚と、ピザ二枚を交換したと自慢していた。
一万枚で、ピザ二枚。
一枚あたり、数円にもならない。
「……これだ」
俺は、画面の前で小さくつぶやいた。
一周目の俺は、この通貨の名前を、何度もニュースで聞いた。十年もしないうちに、一枚が数百万円になる。ピザ二枚と交換した一万枚は、のちに数百億円の価値になって、「史上最も高いピザ」と呼ばれるようになる。
一周目の俺は、そのニュースを見て、「誰がそんなもの買うんだ」と笑っていた。
二周目の俺は、今、それを買える場所にいる。
◇
翌朝。丸の内のオフィス。
「仮想の、通貨ですか」
レイコさんは、俺が印刷してきた掲示板の書き込みを読みながら、眉をひそめた。
「国も、銀行も、発行していない。裏付けになる資産も、何もない。ただの計算の結果を、みんなが価値があると思い込んでいるだけ」
「そう」
「投資の対象には、なりません」
レイコさんは、きっぱりと言った。
「規定で言えば、価値の根拠を説明できないものには、投資しない。佐伯さん自身が、黒田社長の出資を断ったときに言った言葉です」
痛いところを突かれた。
「……会社の金じゃない。俺の個人の金で買う。それも、ほんの少しだけ」
「どれくらいですか」
「三百万円」
レイコさんは、一瞬、きょとんとした顔をした。
「……三百万円、ですか。三百億円ではなく」
「三百万円」
総資産五千億円の会社の代表が、三百万円の話をしている。レイコさんは、その落差に少しだけ戸惑ったようだった。
「その程度なら、規定の対象外です。ご自由に」
「ありがとう」
「ただし、記録はしておきます。佐伯さんの、初めての『根拠のない投資』として」
レイコさんは、手帳に何かを書き込んだ。
◇
買うのは、思ったより大変だった。
まだ、まともな取引所がほとんどない。掲示板で売り手を探し、海外の小さな取引サイトに口座を作り、慣れない英語でやり取りをする。
一周目の会社員時代、システムの仕様書を何百本も読んだ経験が、こんなところで役に立った。
三週間かけて、ようやく三百万円分を手に入れた。
枚数にして、約四十万枚。
パソコンの画面に、その数字が表示された。
「……四十万枚」
ピザ二枚と交換されたのが、一万枚。
その四十倍。
俺は、その数字を、紙に書き写した。それから、通貨を取り出すための長い暗号の鍵を、三枚の紙に分けて書き、銀行の貸金庫に預けた。
一周目のニュースで、何度も聞いた話がある。この通貨で大儲けするはずだった人が、鍵をなくして、一生取り出せなくなった話。パソコンを捨ててしまって、何百億円分の通貨が、ゴミの山の中に消えた話。
同じ失敗はしない。
◇
その週末、ニューヨークのアリサから電話がかかってきた。
『レイコから聞いたわよ。あなた、ネットのおもちゃのお金を買ったんですって?』
電話の向こうで、アリサは声を出して笑っていた。
「おもちゃって」
『おもちゃよ。ウォール街じゃ、誰も相手にしてないわ。オタクの技術者が、自分のパソコンで遊んでるだけ』
「アリサは、仕組み、分かるのか」
『一応ね。大学で、暗号の授業も取ってたから』
アリサは、少しだけ真面目な声になった。
『仕組み自体は、よくできてるのよ。誰かが勝手に数字を書き換えられないように、世界中のパソコンが互いに見張り合ってる。発行される枚数にも、上限がある。金みたいに、掘れば掘るほど掘りにくくなる』
「……詳しいな」
『でも、それだけ。価値の裏付けは、何もない。みんなが価値があると信じてる間だけ、価値がある』
「それって、普通のお金と何が違うんだ」
電話の向こうが、少しだけ静かになった。
『……面白いこと言うわね』
アリサは、しばらく考えるように黙っていた。
『いいわ。私も、ポケットマネーで少しだけ買ってみる。ランチ代くらい』
「ランチ代でいいのか」
『ランチ代でいいの。あなたの勘が外れたら、二人で笑い話にしましょう』
アリサは、楽しそうに笑って電話を切った。
一周目の記憶が正しければ、そのランチ代は、十年後に高級マンション一部屋分くらいになる。
◇
六月。
ミサキの誕生日を、今年もマンションで祝った。
三十二歳になったミサキは、出版社の文芸編集部の編集長になっていた。
「編集長だって。私が」
ミサキは、ワイングラスを片手に、まだ実感がわかないという顔をしていた。
「この前まで、作家さんの原稿を待って徹夜してたのに。今は、部下の原稿の催促を待つ側なの」
「似合ってるよ」
「また、おじさんの言い方」
ミサキは笑って、それから、俺の顔をじっと見た。
「ショウゴくんは、最近何してるの? また、すごいことしてるんでしょ」
「ピザ二枚分くらいの、小さい買い物をした」
「ピザ?」
「十年後に、話すよ」
「なにそれ。また勘?」
「勘」
ミサキは、呆れたように肩をすくめた。
「いいよ。十年後に、ちゃんと話してね。私、覚えておくから」
ミサキは、テーブルの上の、例の青い万年筆を手に取った。塗装はさらにすり減って、ところどころ地金が見えていた。
「これで、メモしとく」
ミサキは、手帳に何かを書いた。
『2010年6月。ピザ二枚。10年後に聞くこと』
◇
その夜、ミサキが眠ったあと、俺はもう一度、パソコンの画面を開いた。
四十万枚。今の価値は、三百万円。
一枚あたり、七円五十銭。
一周目の記憶の中で、この数字が最初に跳ね上がるのは、来年の春ごろだ。それから何度も、上がっては崩れ、崩れては上がる。そして2017年の終わりに、一枚が二百万円を超える。
四十万枚が、一枚二百万円になったら。
俺は、電卓を叩きかけて、やめた。
三百万円が、八千億円。
計算するまでもなかった。佐伯キャピタルの今の総資産を、一枚の紙切れのような通貨が、たった七年で追い越してしまう。
でも、まだ、ただの数字だ。
宝くじの番号も、株の値段も、それが本当の金に変わるまでは、ただの数字だった。そして、数字は、ときどき裏切る。
――十年は、長い。
画面を閉じて、窓の外を見た。
東京の夜景の向こうに、まだ誰も知らない新しい時代が、静かに始まろうとしていた。
現在資産:560,003,000,000円
ピザ二枚分の買い物、覚えておいてください(笑)
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