第35話 燃え跡の向こう
2009年、十月。
俺は、アメリカの中西部の小さな町にいた。
見渡すかぎり、とうもろこし畑が続いていた。その真ん中を、まっすぐな道路が一本だけ走っている。
道路沿いに、小さな工場があった。自動車の部品を作っている、あの会社の工場だ。春に、佐伯キャピタルが株を買い支えた、リストの四十二番。
工場の門の前に、アリサが立っていた。隣に、日に焼けた白髪の男性がいた。
「父よ」
アリサが、少し照れくさそうに言った。
男性は、作業着のまま、大きな手を差し出した。
「アリサの父の、トーマスだ。……君が、ショウゴか」
「はい」
トーマスさんは、俺の手を、痛いくらい強く握った。
「アリサから、全部聞いた。工場を救ってくれた日本の会社の社長が、娘の雇い主だったなんてな」
「数字が、そう言ってたので」
「アリサも、同じことを言ってたよ。あいつは、子どもの頃から数字の話ばかりだった」
トーマスさんは、工場の建物を振り返った。
「ここで三十年、働いてきた。去年の冬は、もう終わりだと思った。仲間たちも、みんな家族をどうするか、そればかり考えてた」
トーマスさんは、もう一度、俺の手を握った。
「ありがとう。仲間たちの分も、礼を言わせてくれ」
◇
その夜、アリサの実家で、夕食をごちそうになった。
三十年ローンで買ったという、小さな木造の家。リビングの壁には、アリサの子どもの頃の写真が、何枚も飾ってあった。
アリサの母親が焼いた、大きなミートローフ。マッシュポテト。とうもろこしのスープ。
「日本の人は、こういう料理、食べるのかしら」
アリサの母親が、心配そうに聞いた。
「すごくおいしいです」
本心だった。どこか、実家の母が作る肉じゃがに似た味がした。
食事の途中で、トーマスさんが、アリサに聞こえないように小声で言った。
「ショウゴ。アリサのこと、よろしく頼む」
「……はい」
「あいつは、強がりだが、本当は寂しがり屋なんだ」
トーマスさんは、ビールを一口飲んで、続けた。
「日本には、他にも女性がいるそうだな。アリサから聞いた」
背中に、冷たい汗が流れた。
トーマスさんは、少しだけ黙っていた。それから、肩をすくめた。
「アリサが、それでいいと言ってる。なら、俺が口を出すことじゃない。……ただ、全員を幸せにしろよ。それが、男の甲斐性ってもんだ」
「……約束します」
トーマスさんは、大きな手で、俺の背中を一度だけ叩いた。
その手の重さは、どこか、日本の父の手に似ていた。
◇
十一月。
日本に戻った俺は、四人を連れて、沖縄に行った。
八年前、ミサキと二人で来た、あのビーチだ。今回は、海に突き出したヴィラを、三棟まとめて借り切った。
「わあ……変わってない」
白い砂浜に降り立って、ミサキが言った。
「八年前と、同じ海の色」
「ここ、ショウゴくんと初めて二人で旅行した場所なんです」
ミサキは、少しだけ胸を張って、他の三人に言った。
「一番最初は、私だから」
レイコさんが、眼鏡を押し上げた。
「承知しています。早瀬さんが一番最初であることは、記録にも残っています」
「記録って何!?」
カオルさんが、日傘の下で優雅に笑った。
「仲がいいわね、あなたたち」
アリサは、もう裸足で波打ち際に駆け出していた。
「ねえ! 海、あったかい! ニューヨークの海と全然違う!」
◇
昼は、それぞれが好きなように過ごした。
ミサキとアリサは、ガイドを雇ってシュノーケリングに出かけた。
「ショウゴくん、見て! 魚! 青いの!」
海から顔を出したミサキが、大きく手を振る。その隣で、アリサがシュノーケルをくわえたまま、親指を立てていた。いつの間にか、すっかり仲良くなっていた。
レイコさんは、ヴィラのテラスのパラソルの下で、ノートパソコンを開いていた。
「休暇なんだから、仕事はやめろって」
「仕事ではありません。市場を見ているだけです」
「それを仕事って言うんだよ」
レイコさんは、画面から目を離さずに言った。
「……佐伯さんの隣で動いている数字が、一番面白いと前に言いました。休暇中でも、それは変わりません」
それから、ほんの少しだけ、画面から顔を上げた。
「でも、夕方からは閉じます。約束します」
カオルさんは、日傘を差して、波打ち際をゆっくり歩いていた。着物ではなく、白い麻のワンピース姿だった。
「旅には着物と決めているんじゃなかったんですか」
「沖縄は特別よ。この海の色に、着物は勝てないわ」
カオルさんは、日傘を少し傾けて、海を見た。
「十八で東京に出てきてから、こんなふうに何もしない日、初めてかもしれない」
「これから、もっと増やしましょう」
「あら。あなたが言うと、本当にそうなりそうで怖いわ」
カオルさんは、俺の腕にそっと手を添えた。
遠くで、ミサキとアリサの笑い声が、波の音に混じって聞こえていた。
◇
夕暮れ。
ヴィラのテラスで、五人でテーブルを囲んだ。
シャンパンのグラスが、夕日を受けて金色に光っていた。
「乾杯の前に、報告します」
レイコさんが、手帳を開いた。
「本日の終値で、佐伯キャピタルの総資産は、五千二百億円を超えました」
ミサキが、目を丸くした。
「ご、ごせんにひゃくおく……」
「八年前、ここで聞いた金額の、何倍ですか」
「何倍って……」
ミサキは指を折って数えようとして、途中であきらめた。
「分かんない。桁が、多すぎる」
全員が、笑った。
俺は、グラスを持って、四人の顔を順番に見た。
ミサキ。レイコさん。カオルさん。アリサ。
一周目の俺は、四十八年間、誰とも、こんなふうに夕日を眺めたことがなかった。
「……乾杯」
五つのグラスが、夕日の中で音を立てた。
◇
その夜。
みんなが眠ったあと、俺は一人で、テラスに出た。
満天の星の下で、俺は記憶の引き出しを開けた。
来年、2010年。
まだ誰も知らない、インターネット上の新しい「通貨」がある。今はまだ、ほとんど値段がついていない。一枚、数円にもならない。
それが、十年もしないうちに、一枚数百万円になる。
そして、2012年の冬。日本の政権が変わり、円安と株高の大きな波が来る。
――まだまだ、桁は変わる。
ふと、テーブルの上の携帯が光った。
アリサのパソコンに転送されてきた、一通のメールの写しだった。ニューヨークの知り合いから、彼女に届いたものらしい。
『マクレガーが、新しいファンドを立ち上げた。出資者は、中東と欧州の大口投資家。業界で噂になってる。彼は、佐伯キャピタルの名前を、何度も口にしているらしい。――次は、必ず潰す、と』
俺は、携帯の画面を消した。
夜の海から、波の音が聞こえていた。
「……来るなら、来い」
星空に向かって、つぶやいた。
国家予算まで、あと二百倍。
現在資産:520,000,000,000円
――第3部 世界が燃える日 完――
第3部、これにて完結です!
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
リーマン・ショックを読み切って、資産は約5,200億円に。
アリサも加わって、ヒロインは四人になりました。
アリサのお父さんの工場の話は、書いていて一番好きな場面のひとつです。
次回から、第4部が始まります。
2010年代。仮想通貨、円安、スマートフォン。
新しいヒロインも、二人登場予定です。
そして、マクレガーはまだ諦めていません。
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