第34話 世界が知った名前
2009年、三月の終わり。
株価が、底を打った。
誰も、それが底だとは気づかなかった。新聞もテレビも、まだ「下落は続く」と言っていた。
でも、四月に入ると、株価は少しずつ上がり始めた。五月も、六月も、上がり続けた。
専門家たちは、「一時的な反発だ」と言った。
六年前と、まったく同じ言葉だった。
◇
レイコさんのリストの百社は、ほとんどが値上がりした。
二倍になった会社。三倍になった会社。中には、底値から五倍になった会社もあった。
「総資産、四千億円を超えました」
六月の終わり、レイコさんが報告した。
「三月に買い始めてから、三か月で、評価額が一千億円以上増えています」
オフィスの空気は、去年の秋とはまるで違っていた。
アナリストたちは、毎朝、笑顔で市場を見ていた。新しく採用した社員たちも、活気に満ちていた。佐伯キャピタルの社員は、東京とニューヨークを合わせて、三十人を超えていた。
「レイコさん。リストの会社、何社が勝った?」
「百社のうち、九十二社が値上がりしています」
「俺の勘で選んだ半分と、レイコさんの数字で選んだ半分。どっちが勝った?」
レイコさんは、少しだけ口元を緩めた。
「……私の数字のほうが、わずかに上でした」
「だろうと思った」
「勝ち負けではありません。でも、記録はしておきます」
◇
七月。
アリサから、電話がかかってきた。
いつもと、声の調子が違った。
『ショウゴ。父から、電話があったの』
「お父さんから?」
『父の工場、閉鎖されずに済んだの。春に、新しい大株主が現れて、資金繰りを支えてくれたからって』
アリサの声が、少しだけ震えていた。
『その大株主が、日本の投資会社だって、父は言ってた。名前は、覚えてなかったみたいだけど』
「……そうか」
『工場の人たちも、誰もクビにならなかった。父も、まだ働けてる』
電話の向こうで、アリサが小さく鼻をすする音がした。
『あなた、マンハッタンの夜道で言ったわよね。全部は止められないけど、起きたあとに何かをすることはできるって』
「言った」
『本当に、したのね』
俺は、窓の外を見た。夏の丸の内のビル群が、青空の下で光っていた。
「数字が、そう言ってたからな」
『……嘘つき。リストの四十二番を見たとき、あなた、一番最初に私の顔を思い浮かべたでしょう』
図星だった。
アリサは、涙声のまま、小さく笑った。
『父がね、言ってたわ。その日本の投資会社の社長に、いつか直接お礼を言いたいって』
「……そのうち、会いに行くよ」
『本当に?』
「ああ。アリサの実家の、三十年ローンの家に」
アリサは、しばらく黙っていた。
『……待ってる』
◇
八月。
アメリカの経済誌に、一本の記事が載った。
『金融危機を予言した東洋の男――佐伯キャピタルのショウゴ・サエキ』
記事には、俺の写真と、アリサの写真が並んでいた。
――二年前、ウォール街で誰にも信じてもらえなかった若手トレーダーと、日本の無名の投資家が組み、住宅バブルの崩壊に賭けた。彼らは、危機の最中に数千億円の利益を上げ、さらに、底値で数百社の企業を買い支えた。
記事の最後には、アリサのコメントが載っていた。
『彼は、私の話を最初に聞いてくれた人です。そして、正しいことと儲かることを、両方取る人です』
記事が出た週、佐伯キャピタルのニューヨーク拠点には、世界中から電話が殺到した。資金を預けたいという投資家。働きたいという若いトレーダー。取材を申し込む記者。
アリサは、そのほとんどを、レイコさんが作った基準で、冷静にさばいていった。
◇
八月の終わり。
俺は、約束を果たしに、銀座の月白へ行った。
一人ではなかった。佐伯キャピタルが株を買い支えた日本の会社の社長や役員たちを、十人ほど連れていった。
「佐伯さんに、ぜひお礼をしたいと思っていたんです」
「どこへでもお供しますよ」
みんな、そう言ってついてきてくれた。
扉を開けると、カオルさんが、いつもの藍色の着物で出迎えた。
客でいっぱいのボックス席を見て、カオルさんは一瞬だけ目を見開いた。それから、何事もなかったように、品のいい笑顔で頭を下げた。
「いらっしゃいませ。ようこそ、月白へ」
その夜、店は久しぶりに、満席になった。
閉店間際、カオルさんがカウンターの端で、俺の猪口に燗酒を注いだ。
「……本当に、連れてきてくれたのね」
「約束したので」
「景気が戻ったら、って言ったのよ。まだ、戻りきってないわ」
「すぐに戻りますよ」
「あら、どうして分かるの」
「なんとなく」
カオルさんは、着物の袖で口元を隠して笑った。
「相変わらず、何か知ってる人の言い方ね」
それから、小さな声で付け加えた。
「ありがとう。……私、このお店、もう少しだけ続けられそう」
その週、ミサキからもメールが届いた。休刊していた雑誌の一つが、秋から復刊することになったらしい。辞めた先輩の何人かも、編集部に戻ってくるという。
『景気、本当に戻ってきたね。ショウゴくんの勘、また当たり!』
◇
日本でも、同じような記事が出た。
『世界が認めた日本人投資家――佐伯ショウゴ、資産四千億円の衝撃』
書いたのは、また沢口記者だった。
宝くじのときは「謎の億万長者」、ネクストリームのときは「天才投資家」。そして今度は、「世界が認めた」。
「沢口さん、佐伯さんの専属記者みたいになっていますね」
レイコさんが、記事を読みながら言った。
「七年前、マンションの前まで押しかけてきた人とは思えません」
「人は変わるもんだ」
「変わったのは、沢口さんではなく、佐伯さんの資産の桁だと思いますが」
レイコさんは、記事を丁寧に切り抜いて、ファイルに綴じた。
「記録しておきます」
◇
九月の初め。
実家の両親から、電話がかかってきた。
『ショウゴ、あんた、テレビに出てたわよ!』
母の声が、興奮で上ずっていた。
『ニュースで、アメリカの雑誌に載った日本人って。お父さんなんか、録画して三回も見てたわ』
電話の向こうで、父が何か言っている声がした。
『……おい、ショウゴ。体だけは、大事にしろよ』
父の声だった。いつもどおり、ぶっきらぼうだった。
「ああ。分かってる」
『それとな』
父は、少しだけ言葉を探すように、間を置いた。
『……よくやった』
それだけ言って、父は母に受話器を返したらしかった。
母が、くすくす笑いながら言った。
『お父さん、照れて部屋から出ていっちゃったわよ』
電話を切ったあと、俺はしばらく、窓の外を見ていた。
一周目の俺は、父に「よくやった」と言われたことが、一度もなかった。
四千八百億円の資産より、その一言のほうが、ずっと重かった。
今年の正月も、必ず帰ろう。今度は、父の好きな日本酒を一升瓶で持って。
現在資産:480,000,000,000円
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