第33話 全員が絶望したとき
2008年の冬は、世界中が暗かった。
年末、東京の街角では、仕事と住まいを失った人たちのために、炊き出しのテントが張られていた。ニュースでは、工場の閉鎖、派遣社員の契約打ち切り、大企業の赤字決算が、毎日のように報じられた。
株価は、下がり続けていた。
テレビの経済番組の専門家たちは、もう「一時的な調整」とは言わなかった。
「百年に一度の危機です」
「底がどこにあるのか、誰にも分かりません」
二年前、住宅市場は堅調だと言っていたのと、同じ人たちだった。
◇
十二月の初め。
カオルさんの店を訪ねると、開店から二時間たっても、客は一組しかいなかった。
「見てのとおりよ」
カオルさんは、カウンターの端で、静かに笑った。
「会社の交際費が、真っ先に削られるの。銀座は、景気の鏡だから」
「……大丈夫なんですか」
「大丈夫よ。こういう冬は、前にもあったわ。バブルが弾けたあとの銀座は、もっとひどかった」
カオルさんは、空っぽのボックス席を見回した。
「でもね、こういうときに残ってくれるお客さんが、本当のお客さんなの。景気のいいときだけ来る人は、景気が悪くなると来なくなる。それで、いいのよ」
去るものは追わない。
カオルさんは、俺と同じことを、ずっと昔から実践していたのだ。
「店の家賃、俺が持ちましょうか」
「やめて」
カオルさんは、珍しくきっぱりと言った。
「この店は、私が自分の力で持った店よ。あなたのお金で生き延びたら、私は私じゃなくなる」
「……すみません」
「謝らなくていいわ。気持ちは、ありがたく受け取っておく」
カオルさんは、俺の猪口に、燗酒を注いだ。
「その代わり、景気が戻ったら、取引先の偉い人たちをたくさん連れてきてちょうだい。それが一番嬉しいわ」
◇
ミサキの出版社も、苦しんでいた。
広告の収入が減り、雑誌が二誌、休刊になった。社員の一部には、早期退職の募集がかけられた。
「副編集長になったばっかりなのにね」
マンションのソファで、ミサキは膝を抱えていた。
「私の部署は、なんとか残れそう。でも、隣の雑誌の編集部、半分くらいの人が辞めることになったの。一緒にご飯行ってた先輩も」
ミサキは、膝に顔を埋めた。
「ショウゴくんの会社は、大丈夫なんだよね」
「大丈夫だ」
「……よかった。それだけは、よかった」
俺は、ミサキの隣に座って、肩を抱いた。
「ミサキ。春になったら、景気は少しずつ戻り始める。来年の夏には、今よりずっとましになってる」
「それも、勘?」
「勘だ」
ミサキは、顔を上げて、小さく笑った。
「ショウゴくんの勘、外れたことないもんね」
◇
年末。
大学の同期の村井から、久しぶりに電話がかかってきた。
『佐伯、ニュース見たぞ。アメリカの金融危機、当てたんだってな。もう驚かないけどさ』
「村井のところは、大丈夫か」
『なんとかな。携帯のサービスは、不況でも意外と強いんだ。みんな、外で遊ぶ金を節約して、家で携帯ばっかりいじってるから』
村井は、少しだけ声を落とした。
『でもさ、うちの親父の会社がやばいんだ。町工場で、自動車の部品作ってるんだけど、注文が半分になったって』
「……そうか」
『お前に頼むのは筋違いだって分かってる。ただ、聞いてほしかっただけだ』
「村井。親父さんの会社の名前、教えてくれ」
『え?』
「レイコさんのリストに入るかどうか、見てもらう。入らなかったら、すまん。数字で決めるのが、うちのルールなんだ」
電話の向こうで、村井が黙り込んだ。
『……お前、本当に変わったよな。大学の頃は、人の話なんて半分も聞いてなかったのに』
「中身が親父になったんだよ」
『それ、もう十年近く言ってるぞ』
村井は笑った。その笑い声は、少しだけ湿っていた。
◇
年が明けて、2009年。
株価は、まだ底を探していた。
オフィスの丸テーブルに、レイコさんが一冊のファイルを置いた。
「去年の春に言っていたリストです。底で買う会社の候補」
ファイルを開くと、会社の名前が百社ほど並んでいた。日本の会社もあれば、アメリカやヨーロッパの会社もある。
「選んだ基準は三つです。一つ、本業でちゃんと利益を出していること。二つ、借金が少ないこと。三つ、今の株価が、会社の本当の価値より大幅に安いこと」
レイコさんは、ページをめくった。
「今、この百社は、全部投げ売りされています。いい会社も悪い会社も、まとめて売られている。だから、本当にいい会社が、信じられない値段で買えます」
俺は、リストを一行ずつ見ていった。
記憶の中にある名前が、いくつもあった。この危機を乗り越えて、数年後に大きく成長する会社。そして、記憶にない名前も、たくさんあった。
レイコさんが、数字だけで選んだ会社たちだ。
「……いいリストだ」
「佐伯さんの勘と、どれくらい重なっていますか」
「半分くらい」
「残りの半分は」
「レイコさんの勘のほうが、正しいかもしれない」
レイコさんは、眼鏡を押し上げて、小さく咳払いをした。
「私は勘では選んでいません。数字です」
◇
アリサからは、毎日のように電話がかかってきた。
『アメリカの工場が、どんどん閉鎖されてる。父の働いてた工場も、危ないらしいの』
アリサの声は、沈んでいた。
『自動車の部品を作ってる会社。いい会社なのよ。技術もあるし、真面目な人ばかり。でも、自動車が売れなくなって、資金繰りがつかなくなってる』
「その会社の名前、教えてくれ」
『……なんで』
「レイコさんのリストに、入ってるかもしれない」
電話の向こうで、アリサが息を呑んだ。
◇
三月の初め。
記憶の中にある、「底」の日付が近づいていた。
世界中の株価が、何年ぶりかの安値をつけていた。新聞の一面には、「底なし」「終わりの見えない下落」という言葉が並んでいた。
誰もが、絶望していた。
その朝、俺はオフィスの全員を、丸テーブルの周りに集めた。
東京のメンバーと、スピーカーの向こうのニューヨークのメンバー。
「今日から、買う」
全員の顔が、こちらを向いた。
「レイコさんのリストの百社。全部、少しずつ買っていく。一度に全部は買わない。三か月かけて、少しずつ」
「さらに下がったら」
アナリストの一人が、恐る恐る聞いた。
「下がったら、もっと買う」
俺は、窓の外を見た。三月の東京は、まだ肌寒かった。でも、皇居の堀端の桜のつぼみが、少しだけ膨らみ始めていた。
「みんなが絶望してるときが、一番の買い場だ。六年前、レイコさんと二人で、それを証明した」
レイコさんが、静かにうなずいた。
スピーカーの向こうで、アリサの声がした。
『……リストの四十二番。私の父の工場の会社、入ってたわ』
「知ってる」
『買ってくれるの』
「買う。数字が、そう言ってる」
電話の向こうで、アリサは長いあいだ、何も言わなかった。
やがて、小さな声が聞こえた。
『……ありがとう、ショウゴ』
その日、佐伯キャピタルは、一日で三百億円分の株を買った。
翌週、株価はさらに一割下がった。資産の評価額は、一時的に減った。
それでも、俺は買い続けた。
現在資産:360,000,000,000円
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